彼が旅立ったのは数ヶ月前。オーキド博士に最初のポケモンを貰い、町の出口に立った彼は茶色の髪を風に揺らして「じゃあ」と小さく笑った。
あまりにも素っ気ない別れが寂しくて。「ファイアくんは、」と、私は堪えきれずに彼の袖を引いたのだ。


 「何」
 「その、…強いもん、ね?」

思い付きの行動で、当然言うべき台詞など決めていない。反射的に浮かんだ言葉をそのまま唇に乗せる形になる。訳のわからない問いにファイアくんは怪訝そうな顔をしたが、少し考えた後曖昧ながらも答えをくれた。

 「それは相手にもよるだろ。…でもまあ、そうだな。こいつとなら負ける気はしない」


初めて持ったはずのモンスターボールに目を向け、嬉しそうに瞳を細める。そのボールの中にいるのはヒトカゲというポケモンなのだと、弾んだ声でそう教えてくれたのはつい先ほどのことだ。
彼の少し俯いた横顔にはポケモンを持てたことへの喜びとこれからの旅への期待が浮かんで見え、何だかこの幼なじみがとてつもなく遠い人のように思えてしまう。


 私は自分のポケモンを持っていない。生まれてこの方持ったことがないのだ。今日だって年齢的には問題ないはずなのに、幼なじみの中で私だけ、旅に出ることを選ばなかった。その理由は何とも下らない。自分にはまだ早いような気がして。ただそれだけだ。それだけなのだ、が。なのにどうしてこんなに焦りを感じるのか。
分からなくて、まるでそれを探るかのように無意味な会話を続ける。

 「じゃあ、ファイアくんはグリーンくんより強いんだ?」
 「当然」

 ファイアくんはそこだけ妙に言い切るものだから、私は可笑しくて「さすが」なんて笑ってしまったものだ。
そして笑い止んだ後に残る、先ほどよりも更に虚しい小さな空白感。


 「行っちゃうんだね」
 「…そうだな」
 「あのねファイアくん」

引き留めた時のまま、彼の薄い服の袖を掴んだまま、私は帽子のつばが影を落とすファイアくんのその目を見る。

 「待ってたら帰って来てくれますか?」


 それは今まさに旅立とうとしている者に向ける言葉ではなかったかもしれない。焦った結果につい溢れてしまった、未練だらけで押し付けがましいただのわがままだったかもしれない。
だけどそれでもしばらくの後、「バカか」なんて口汚い言葉と一緒に私の頭に伸びる手があったのだ。


 「当たり前だろ」

先程と同じく、気持ちよく言い切った返事がやはり少しは嬉しくて、「じゃあな」と言って私の手から離れて遠くなる彼の背中を見つめ、彼の旅の出発点に立ったまま、私は立ち去ることも出来ずにそこにいた。



ーーーーーーーーーーーーーー



 それから、数ヵ月後のことだ。
時刻はお昼を少し過ぎたところ。お母さんに頼まれた私は嫌々ながら家の前を掃き掃除していた。空は快晴、気持ちいい風の吹き抜ける爽やかな日。手にした竹のホウキを見て、何だかどこかの魔女みたい、なんて思ったその時だ。

大きな翼を持つ美しいポケモンがこの穏やかなマサラタウンに降り立った。魔女がホウキで飛び上がるよりずっと勢いよく、力強く羽ばたいたそれは粉塵を巻き上げて、今しがた掃いたばかりの地面を汚す。


 2メートル弱の巨体、美しいラインを描く尾の先に炎を灯したそのポケモン――リザードンはゆっくりと地面に着地し、鋭い爪を携えた脚でしっかり地面を踏みしめる。後ろに広げた翼の影から覗く懐かしい顔に、私の気持ちが一気に浮上したのは言うまでもない。


 「……悪い。汚したか」
 「ファイアくん!」

 久しぶりに見た律儀な幼なじみは、すまなさそうに謝って辺りを見回す。だがこの狭いまちのこと、降りられる場所は限られているのだから仕方ない。ごみならまた掃けばいい話だ。それよりも今は、彼が帰って来たことが純粋に嬉しかった。


 私は改めて、リザードンに乗っている為に自分より遥か上方にある茶色を見上げる。彼の股がるこのリザードンは、数ヶ月前のあの日に彼がオーキド博士から受け取ったヒトカゲなのだろう。随分立派になったものだ。心なしかトレーナーである彼も、顔つきが大人っぽくなったようにも思う。たった数ヶ月のことなのに、もしかしてファイアくんは旅の間に玉手箱でも手に入れたのだろうか。…そんなことはないか。


 「掃除か」
 「うん。…お母さんに、"家にいるんなら手伝いくらいしなさい"って言われたから」

ファイアくんは「まあ、そうだろうな」と言いつつリザードンから降りてボールにしまった。久しぶりに目の前に立って、数ヶ月前より広がったような気がする身長差に数ヶ月の焦燥が蘇る。私はまた誤魔化して明るい口調で問い掛けた。


 「久しぶりだね」
 「だな。元気してたか?」
 「うん!ファイアくんは?旅は順調?」
 「ああ。バッジを集め終えて、これからリーグに挑戦しようと思ってる」

…どうやら、順調どころの話ではなかったらしい。だってそんな、カントーのジムリーダーを全員倒してしまうなんて。それもたったの数ヶ月で!冒険の平均的な長さは知らないが、それがとんでもない偉業であることは分かる。ファイアくんはとんでもなくすごい人だ。

 「すごい、もう集めちゃったんだ」
 「まあ、な」

そしてそれを何でもないことのように言う。胸の奥で、どくんと嫌な音が鳴った気がした。胸が高鳴るようなのとは違う、ふわふわどころかむしろどんよりと重たいような、そんな感覚を感じるのだ。ファイアくんが嫌だとか憎いだとか、そんなことは全くもってありえないはずはないのに、どうして。


 「すごい、すごいんだね…」

分からないけれど、何だか胸がざわざわする。数ヶ月前から、私は何かが変なのだ。



 「―――ナマエは、」

 そのまま黙っていたら、ふいにファイアくんが言った。聞き慣れたいつもの声に現実へと引き戻される。

 「ん、なに?」
 「ナマエは旅とか、しないのか」
 「………」

その、まるで私の心を透かし見たかのような問いに、嫌な音ごと心臓が止まるかと思った。

ファイアくん達が旅に出てからなのだ。こんなに胸が痛くなるのは。初めは寂しさからくるものなのだと思っていた。だけど違う、それだけじゃないと今分かる。


 「…いつかはね、しようと思ってるよ。でもね、まだダメだ」

確かに、旅に憧れる気持ちはある。ファイアくん達が旅立ってからますます、その思いは膨らみつつあった。だけどそれは今じゃないのだ。今じゃない、具体的には言い表せないような、近くも遠くもない"いつか"の未来の話だ。そう言うとファイアくんはそうかと頷き、自らのカバンに手を伸ばした。

 「これ」
 「ん?なに?」


 彼がそこから取り出したのはピンク色の、彼が持つには少々可愛らし過ぎる人形であった。ピッピ、というポケモンのかたちを象ったそれを、ファイアくんは片手に掴んで無愛想に突き出してくる。彼とは全く反対の、愛らしいピッピの瞳が彼の手の中で私を見上げて微笑んだ。


 「ありがとう、かわいい」
 「…それは良かった」

両手で受け取ると、ファイアくんはほう、と息を吐いて安心したようだった。どうしてかと理由を尋ねれば、「お前が気に入る物が分からなかったからな」と苦笑い。そんなの、ファイアくんがくれるものなら嬉しくないものなんかないのに。本人には言わないけどそう思った。


 「初めは何か、ポケモンを渡そうと思ったんだ。けど、…それは、初めてのポケモンはやっぱり自分で選んで欲しい」

きっと今はボールの中にいるリザードンを思って、そう言う。「だから代わりに、やる」と。


 「もしもお前が旅に出て、自分でポケモンを捕まえて、バッジも集めたら、」
私から見れば漠然とした空想のようなその日を、彼の言葉が代わりに形作っていく。自分のことのはずなのに、どこか遠くの地方のニュースでも聞いているかのような気持ちで私は続きを待った。


 「そうしたら、一緒にバトルしよう」
 「………」



 私は返事を口にすることができず、代わりに小さく頷いた。

つまりは結局、彼はずるいのだ。そうやって私の持つ選択肢を削っていくんだから。現に私は今、実現するかも分からない"いつか"だったはずの旅立ちの日が、少し近付いたような気がしている。


 要するに、私は置いていかれたような気がしていたんだな。それで訳も分からずに焦って、追い付けないのが嫌で追いかけることを諦めた。彼がそれを知っていたのかは疑問だけれど、それを気付かせてくれる為に今日、帰って来たのかもしれない。


 「ファイアくん、ありがとう。ぬいぐるみ大事にするよ」
 「……あっそ」

相変わらずそっけなく、ファイアくんは笑う私を見下ろした。




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 その後、私は再び彼の旅の始点に立って、あの日よりずっと大きく感じるその背中を見送った。「いってらっしゃい」の言葉に返って来たのは「チャンピオンを倒したら帰る」という、何とも彼らしい簡潔で前向きなコメントだ。リザードンで飛び去るその姿は数十秒もすれば見えなくなったが、しかし私は数ヵ月前と同じ場所で、同じようにじっとその方向を見つめていた。

次に彼がここへ帰る時、その時には"いつか"が○月×日の何曜日、に変わっていたらいい。初めのポケモンももう決めておいて、そしてファイアくんとバトルするまでにはピッピもゲットしたい。そんなことを考えながら、オレンジ色の見えなくなった空を眺めた。



















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