第五章 憂苦
跡部家の別宅でこの家の管理を任されている跡部景吾は、扉の前でゆっくりと深呼吸した。
試合前の緊張感とは比べものにならない程、全身の筋肉が引きつって体が硬直する。
「……ユキ、入るぞ」
軽くノックをしてからドアを開くと、カーテンで閉め切られた暗闇の中にぼうっと白いベッドの輪郭が浮かび上がった。
「……」
跡部は真っ直ぐ窓に歩み寄り、カーテンを開く。
暗闇に赤い夕陽が差し込んで一瞬目が眩みそうになるが、部屋の隅でうずくまる妹を見てすぐに気持ちを切り替えた。
「また何も手をつけなかったそうだな。……新しく入ったコックの料理はお前の口には合わないか」
「……」
膝を抱えてうずくまるユキは起きているのかどうかさえわからない程、ぴくりとも動かない。
昨日も今日も、そしておそらく明日もこの状態のまま、何も変わらないのだろう。
食事にも一切手を付けず、眠っている間の点滴だけでどうにか体を保っている状態だ。
しかしユキは元々体が弱く、まともな栄養も取っていない今の状態ではいつ倒れてもおかしくはない。
発作を起こせば命に関わる。
だが何より気掛かりなのは、あの日以来、一歩も部屋から出ようとしないユキの精神状態だ。
立海大附属中で行われた海原祭の最終日。
学校で何があったのかわからないが、その日を境にユキは人が変わってしまった。
病弱ながらも明るく健気で前向きだったユキが、今は別人のように暗く攻撃的な性格になってしまった。
なるべく刺激しないように優しく接してみても、反応を示す事自体が稀でほとんどはただの独り言になってしまう。
跡部家の使用人のほとんどがそんなユキを厄介者扱いし避けている。
それでも跡部は妹を見放す事なく、根気よく接し続けていた。
「ずっと部屋に閉じ籠っててもつまらねえだろ。お前が観に行きたがっていたオペラのチケットを手配した。少しは気が紛れて……」
「……」
跡部は話し続けるが、ユキは相変わらず俯いたまま何の反応も示さない。
膝の間に顔を埋めたまま、ただ小さな声で"存在しない相手"と会話を続けている。
「……ユキ」
跡部は床に片膝をついて俯くユキの顔を覗き込んだ。
赤い夕陽に照らされているせいか、いつもより若干顔色は良く見えるが、頬はやつれている。
そっと髪を撫でても、もうあの無邪気な笑顔は見られない。
何がユキをここまで追い詰め変えてしまったのか。
その答えをずっと探し続けているが、未だに何の進展もない。
傷だらけの細い腕を見る度に、心が軋んで例えようもない苛立ちと無力さが募る。
「ユキ、いつも誰と話をしてんだ?そこに……誰かいるのか?」
宙を見つめたままの妹に問いかけると、乾いた唇が僅かに開いて声が零れ落ちた。
「……赤也」
「……」
何度か聞いた名前だが、跡部の記憶にはない。
「そうか……。そいつはお前と同じ立海大附属中の生徒なのか?」
ユキが小さく頷く。
だが立海大附属中の生徒名簿にその名は存在しない。
どれだけ調べても結果は同じだった。
所詮、空想の人間に過ぎない。
「その"赤也"って奴といつも何を話してんだ?」
「……テニス」
「そうか。そいつもテニスプレーヤーなのか。俺も一度会ってみたいもんだな」
「……」
不意にユキの瞳が跡部を映しながら揺れた。
跡部は内心焦りながらもどうにか会話を続ける。
「悪い、少し強引だったか。そいつはお前の"親友"だしな。そう簡単には会えねえか」
「……」
ユキはじっと跡部を見つめたまま何も言わない。
張り詰めた空気の中で跡部の息遣いだけがやけに大きく響いた。
「なあユキ、冷静に聞いてくれ。やれるだけの事は全部やった。立海大附属中は勿論、手塚達にも聞いて回った。……だがお前の言う"赤也"や"仁王"を知ってる奴は誰もいなかったんだ。俺はお前を信じてるし、お前は嘘なんかつくはずがねえ。だから……」
言い掛けた跡部の言葉は投げつけられた本によって中断された。
床に座り込んだままのユキが凄まじい形相で跡部を睨みつける。
「嘘つき!!何も信じてないくせに、信じてる振りして……!!」
「ユキ、落ち着け!俺が悪かった、何か気に障ったなら……」
「出てって!!」
ベッドの横に落ちたクッション、枕、時計……。
激高したユキは身近にある物を手当たり次第に跡部に投げつける。
「待て、落ち着け!そんなに暴れたらお前の体が……っ」
「うるさい出てけ!!嘘つき!!」
パニックに陥ったユキは華奢な体からは想像もできない程の力で跡部を突き飛ばし窓の方へ走る。
「待て!!」
「嘘つきばっかり!どうせみんな私の頭がおかしくなったって思ってるんでしょ!!」
「ユキ、落ち着け!!」
「おかしいのはそっちじゃない!!なんで誰も信じてくれないの!!」
「待て!わかった、とにかく落ち着け!早くこっちに……」
「こんな狂った世界、消えてなくなればいいんだ!!赤也を否定する世界なんて、無くなっちゃえばいいんだ!!」
泣き叫びながらユキはカーテンを引きちぎり窓を開け放つ。
「ユキ!!」
「みんな消えて無くなればいい!!」
窓枠に足を乗せて飛び降りようとするユキを、後ろから跡部が羽交い絞めにして止める。
「離して!!」
「っ……おい!誰か手を貸せ!!」
跡部が叫ぶと執事と数人の使用人達がやって来て驚愕の表情を浮かべた。
「薬を早く!」
執事の命令で使用人の一人が部屋の外へ駆け出して行く。
その間も暴れるユキを跡部と使用人達が押さえ込み説得を試みる。
やがて出て行った使用人が戻って来て注射器に入った薬を執事に渡すと、執事は慣れた手つきでそれをユキに注射した。
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