Book of Shadows
幼い頃、ユキはずっと入退院を繰り返していて家に居てもほとんどベッドの上から動けない生活を強いられていた。
両親は仕事が忙しくめったに家には帰れなかったし、使用人達も病弱な妹の世話に疲れ果ててなるべく関わらないようにしていた。
そんな生活がずっと続く中、俺は偶然使用人達が愚痴をこぼしているのを聞いてしまった。
体調の安定しないユキは真夜中に突然発作を起こす事もあり、その度に使用人達は対処に追われまともな睡眠時間も取れない事が多かった。
ユキが入院している間はせいぜい俺の世話をするくらいで、休憩時間に紅茶を飲んだり休暇を取る事だってできた。
だから心身共に疲れ果てていた使用人達が愚痴をこぼすのも仕方のない事だったのかもしれない。
それでもあの言葉を聞いた時は本当に心臓が止まるんじゃないかと思うほどショックを受けた。
使用人達はユキが早く居なくなればいいのに、とそう愚痴をこぼしていたのだ。
俺は悔しくて何か言い返そうとした。
けれどどうしても言葉が出て来なかった。
なんと言ったらいいのかわからないのもあったし、口に出さずとも周囲の人間が皆ユキの事を疎ましく思っている事は子供ながら理解していた。
俺が何か反論した所で余計に使用人達を追い詰め、ユキをもっと苦しい立場にしてしまうだけではないかと。
だから執事の田嶋がそんな使用人達を叱り、はっきりと否定した時はただ驚いた。
一番苦労を背負い込んでいるはずの田嶋がユキを庇ったのだ。
田嶋は使用人達を叱りつけた後、人は心が弱ると思ってもいない事を口にして自分を慰めようとしてしまうのだと言った。
だから彼らも本心からあんな事を言った訳ではないと。
それが真実かどうかはその時の俺にはわからなかったが、俺もユキの事を自分がどう思っているのかよくわからなかった。
俺は病弱なユキとは違って体は頑丈だったし、周囲の期待に応えようと熱心に取り組んだ事もあって勉強も運動も人並み以上にできていた。
そんな俺をユキは怨んでいるんじゃないかと不安だったのだ。
だからユキが入院しても責められるのが怖くて会いに行けなかった。
元々外出すらままならないユキと家で顔を合わせる事さえほとんどなかったのだから無理もない。
会いに行ったところで怒られるだけかもしれない。
双子なのにどうしてお前だけが元気でいられるのかと責められるかもしれない。
自分でも情けないと思うほど、ユキの事に関しては臆病になっていた。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ある日俺は田嶋に頼まれて入院しているユキに着替えを届ける事になった。
あれほど緊張したのは生まれて初めてだったかもしれない。
扉を開けた瞬間に嫌な顔をするのではないかと、俺はしばらく病室の前で立ち尽くしていた。
それでも引き返す事もできずに、結局俺は小さなノックの音と共に病室へと入った。
ユキは白いベッドの上でぼんやりと窓の外を見つめていた。
こうして起き上がっているのは体調が良い方だと田嶋に聞いた事がある。
少しほっとして、けれどユキが俺を嫌がるようなら着替えだけ置いてすぐに立ち去ろうと思ったのだが、予想に反してユキは花のような笑顔を浮かべた。
ここ数日体調が悪かったので誰かと話す事さえしていなかったらしい。
仲の良い看護婦も先日新たに入った患者に付きっきりであまり話せないのだとどこか寂しげな顔でそう言った。
そして俺に外の話をして欲しいと頼んだのだ。
ユキとまともに会話をしたのはその時が初めてで、最初は戸惑ったが楽しそうに笑うユキの顔を見ているとずっと抱いていた不安や緊張がどこかへすっ飛んでいった。
俺達は夢中で話をして、そろそろ時間だと田嶋が迎えに来るまでずっとはしゃいでいた。
帰る時にユキはまた話を聞かせて欲しいと俺に言った。
外に出られなくても話を聞けば遊んでいる気分になれるからと。
それから俺は学校が終わるとすぐユキの見舞いに行って話をするようになった。
他愛もない話ばかりだったが、ユキはいつも楽しそうに笑っていた。
日に日に増えていく笑顔が嬉しくて、宝石のように輝いて見えた。
いつしか俺はその輝きを守りたいと思うようになった。
病気が治らなくても、せめて少しでも長くユキが笑っていられるように。
その為ならどんな事でもすると俺は俺自身に誓ったのだ。
それが兄として生まれた俺の役目だとそう思っていた。
「跡部!」
ふと気づくと見慣れた天井とどこか焦ったような表情をする忍足と宍戸の顔があった。
長い夢から覚めたように体が重く、起き上がるのも面倒だった。
話を聞くと、どうやら俺は丸一日眠り続けていたようだ。
このまま目覚めないのではないかと不安に思うくらい、俺は死んだように眠っていたらしい。
右手にはしっかりとネクロノミコンが握られていた。
この本に触れている限り、俺はユキと繋がっていられる。
けれどそれももうすぐ終わるだろう。
夢の中で刺された喉がじんじんと痛む。
俺の精神もそろそろ限界が来たようだ。
もう一度あの悪夢の世界へ飛び込めば、二度とこちら側へは戻って来られないかもしれない。
「……」
黒化は随分と進んで、今ではもう腕だけでなく全身に及んでいる。
そんな俺を見て、宍戸がもう止めるべきだと主張した。
このままでは願いが叶うのと引き換えに俺が命を落とすのではないかと不安になったのだろう。
だが今更諦めるくらいなら、俺はとっくにこの本を焼き払っている。
忍足と宍戸を部屋から追い払った後、俺は本棚に並べられたアルバムを手に取った。
子供の頃の写真にもユキは写っていないが、執事の田嶋の写真を見つけて俺はぼうっとその顔を見つめた。
田嶋はもう3年前に他界している。
実の両親以上に俺を愛し、育ててくれた恩人だ。
田嶋の前では俺は幾つになっても"坊ちゃん"のままで、弱音も吐けたし自然体でいられた。
そんな田嶋が亡くなる直前、田嶋は俺にあるプレゼントを渡した。
それは14年前、誰かと間違えて俺に贈られた万年筆とメッセージカードだった。
屋敷の誰にも心当たりのないプレゼントで、結局田嶋の手元に戻されたのだが、田嶋はそれをずっと大切に保管していたのだ。
とっくに捨てたと思っていたのに、田嶋はどうしても手放す気にはなれなかったと言っていた。
その理由を聞く前に田嶋は他界してしまったが、今ならわかるような気がする。
その万年筆はユキが俺への卒業祝いに用意した物。
きっといつものように田嶋に相談して二人で買いに行ったのだろう。
亡くなる直前、田嶋は何かとても大切なものを忘れているような気がすると呟いていた。
ユキに関する記憶は失われていたが、田嶋も俺と同じように虚無感を抱いていたのかもしれない。
誰よりも側で俺達の成長を見守って来た田嶋だからこそ、記憶を失っても感情までは忘れられなかったのだろう。
……その思いに報いる為にも、俺はここで諦める訳にはいかない。
もう一度あの悪夢に戻ってユキを救うのだ。
これが最後のチャンスだとしても、俺は必ずユキを救い出してみせる。
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