Book of Shadows

目についた教室の中に入ると、不意に子供の頃の記憶が蘇った。

中学2年の時にユキは病で留年し立海大附属中に転校する事になったが、1年生の頃はここで共に過ごし共に成長していた。

ユキは病気がちで欠席する事も多かったが、病室に閉じこもって一人で勉強しているよりずっと楽しいと喜んでいた。

だいたいの場合、見分けがつかない等の理由で双子は別のクラスに入れられる事が多いが、俺達の場合は男女で性別が違っていた事と、病弱なユキに何かあった時にすぐに対応できるよう同じクラスに入れられたのだ。

ユキとこの学校で過ごした時間は決して長いものではなかった。

双子だからと言っていつも一緒に行動していた訳ではないし、俺は1年の頃からテニス部部長と生徒会長を兼任していたのでそれなりに忙しかったのだ。

ユキも他の生徒に比べれば幾分大人しい性格ではあったが、友達も多くいつもたくさんの生徒に囲まれていた。

本人は病弱な自分を恥じて親友と呼べる程あまり深い付き合いはしなかったようだが、俺と並んで学園にファンクラブが作られる程人気があった。

愛らしく弱々しいユキは母性や庇護欲をくすぐるのか、男子だけでなく女子生徒にも好かれ、そんな妹を俺はいつも自慢していた。

確かに無防備で危なっかしい所はあったが、ユキの笑顔さえあればそれでいいと素直に思えた。

……そんな事さえ、俺はずっと忘れていたのだ。

「……」

失った過去を噛み締めるように机にそっと手を乗せる。

ポケットの中にはまだ霧崎の死体から回収したおまじないの切れ端が入っている。

もう少しでこの悪夢も終わる。

ここを出たら、今度こそ充実した日々を送れる事だろう。

あれから14年も経ってユキにどう説明すればいいのか正直自信がない。

双子として生まれたのに、もう随分と年が離れてしまった。

悪夢の中で出会ったユキはあの頃のまま何も変わっていない。

現実世界に戻ってもユキの事は誰にもわからないかもしれない。

失った記憶が戻ったとしても、姿の変わらないユキを見て周りがどう思うだろうか。

結局ユキを苦しめるだけかもしれない。

それでも……たとえそうだとしても、俺はもうユキのいない世界で生きていく事はできない。

俺の全てを捧げてユキを守る。

ユキを傷つける全てのものから守り通してみせる。

それがあいつの幸せに繋がるのかどうかはわからない。

ユキの記憶の中では俺はまだ中学生のまま、氷帝テニス部の部長をしているのだろう。

だから成長した俺を見てもユキは気がつかない。

もう二度と兄と呼んでくれる事はないのかもしれない。

それは確かにショックではあるが、ユキの側にいられるのなら何だって構わない。

同じ世界で生きていられるのなら、俺は喜んでその未来を受け入れる。

それだけが俺の願いなのだから……。

「!」

ふと耳に飛び込んで来たのは廊下を歩く足音だった。

教室を出て暗がりに目をやると、そこに捜し求めた妹の姿があった。

「ユキ!!」

駆け寄ってその小さな肩を掴んだ瞬間、目の前が歪んで気がつくとまた天神小学校の廊下に戻っていた。

だが右手はしっかりとユキの肩を掴んでいる。

「ユキ……」

ようやくここまで来た。

もう失敗は許されない。

俺は焦る心を落ち着けてユキと向かい合った。

「ずっと捜していたんだ」

「え?私を……?」

ユキは困惑した様子で俺を見上げる。

今ここでお前の兄だと名乗った所で余計に混乱させるだけだろう。

だから俺は跡部家の人間に頼まれて捜しに来たのだと嘘をついた。

心配した両親が探偵を雇っても不自然ではないし、その方がユキの警戒心も解けるだろうとそう思ったのだが、案の定ユキは俺の言う事をすんなり受け入れてほっと安堵のため息をついた。

落ち着いた所で俺はポケットから切れ端を取り出して逆打ちについて説明した。

それをやれば元の世界に戻れる、悪夢から逃れられると。

思った通り、ユキは刻命の切れ端を持っていた。

これで同じ人形の切れ端が2つ揃った事になる。

俺は今すぐ逆打ちを行いここから脱出しようと持ち掛けたが、ユキは少し困った様子で首を振った。

「私はまだ帰れません。ここにはまだ赤也達もいるし……」

心配そうな顔をするユキを見て、俺は慌てて切原達がもうここにはいない事を告げた。

逆打ちを行い、一足先に悪夢から脱出したのだと。

ユキはほっとした様子だったが、それでもなお帰ろうとはしなかった。

「何故だ?ここは危険な場所だ。それはもう十分わかっているはずだろう?」

「それは……。でもここには"お兄ちゃん"がいるんです。だから私だけ先に逃げる訳にはいきません」

「何?」

驚いたのは俺の方だ。

14年前俺がユキと再会したのは確かあの中庭……血塗れのブレザーを着て倒れていたユキを発見した時だ。

俺や宍戸達が天神小学校に来ているとユキが知ったのもその時。

理科室で切原とはぐれた後、ユキは立海の連中や忍足達とは合流していない。

だから俺が天神小学校に来ている事も知らなかったのだ。

なのに……兄を捜している?

どういう事だ?

「同じ学校の友人達とここへ来たんだろう?兄も……ここにいるのか?」

「はい。お兄ちゃんも私と同じように学校の人達とあのおまじないをしてここに飛ばされたって言ってました」

「……」

確かに俺は同じ学校の生徒である忍足と宍戸を巻き込んでここへ来た。

だがどうしてユキがそれを知っているんだ?

「赤也とはぐれて、ずっとお兄ちゃんと一緒に皆を捜してたんです。でもハンマーを持った怖い人に襲われて……それでお兄ちゃんともはぐれてしまったんです」

「襲われた?」

ハンマーを持った人間というのはおそらくこの天神小学校の校長だろう。

奴は死んだ後も快楽殺人鬼となってこの学校を彷徨い続けていた。

だがこれは一体どういう事だ?

俺がユキと行動を共にしていただと?

訳がわからないが、とにかく過去の俺がここにいたとしても問題はないはずだ。

俺は忍足達と逆打ちを行い現実世界に戻った。

その過去が今更変わるとは思えない。

そんな簡単に過去が変えられるのならこんな苦労はしていない。

俺は兄の事は心配無用だから、とにかくここから脱出しようと説得したが、ユキは決して譲ろうとしなかった。

兄の無事を確かめるまでは帰れないと、そう言って首を振る。

「その兄なら今頃おまじないを実行した友人達と逆打ちをして元の世界に帰ってるだろう。だから心配する必要はない」

俺がそう言っても、ユキはそんな事はあり得ないと否定するだけで納得しない。

結局俺の方が折れてしばらく"兄捜し"に付き合う事になってしまった。

廊下を歩きながらここがどれほど危険な場所で、長居すればするほど命が危うくなると説得を続けても、ユキは兄を見つけるまでここから逃げないと決意するばかり。

互いの意見は平行線を辿り収束しない。

俺は足を止めて真っ直ぐユキに向き直って言った。

「兄が心配なのはわかる。だがさっきも言ったようにその兄は自分で逆打ちを行い、ここから脱出する事ができる。逆打ちの方法も知っている。だからこれ以上危険を冒してまで兄を捜す必要はないんだ!」

「……」

ユキは何も答えなかった。

じっと黙り込み、俺を見上げ、そして一言こう告げた。

「お兄ちゃんが逆打ちをして帰るだなんて……そんな事"できるはずがない"んです」

はっきりとした言葉だった。

何故そこまで自信を持って俺の言葉を否定できるのか、その理由がわからない。

今まで俺がユキの側にいてはぐれてしまったのだとしても、俺がどこで何をしているのかユキにはわからないはずだ。

ここへ来た以上、俺も切れ端を持っているのだから忍足達と合流して逆打ちを行っていたとしても不思議ではない。

なのに何故、ユキは俺が逆打ちを行っていないと断言できるのか。

俺が理由を尋ねると、ユキは片手をブレザーのポケットに入れて口を開いた。

「だってお兄ちゃんの切れ端は……」

そこで言葉が途切れて、俺とユキは二人同時に聞こえて来た足音の方へ目を向けていた。


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