Book of Shadows
一階に下りた所で俺はとうとうユキの姿を見失ってしまった。
この暗闇では音を頼りに追うしかないので当然と言えば当然の結果だ。
だが体の弱いユキのこと、まだあまり遠くへは行っていないだろう。
「……」
俺は辺りを見回して、それから更衣室の方へ足を向けた。
追い掛けながら説得を試みたものの、ユキは怯えるばかりで俺の事も怖がっている様子だった。
幾ら何でもこれだけ時間が経って俺に気づかないという事はないだろう。
だとするとユキは何故俺から逃げようとするのか。
もしかしてユキも記憶を失っているのだろうか?
……いや、ユキは切原を捜していると言っていた。それはないはずだ。
ため息をつきながら廊下を歩いていると、ふと中庭を横切る人影が見えた。
どうやら別館へ続く渡り廊下へ向かっているようだ。
俺はすぐに体を反転させてユキの後を追った。
渡り廊下の扉には鍵が掛かっているので外には出られないと思うが、もし万が一別館へ逃げられたら捜すのが困難になってしまう。
扉にすがりつく後ろ姿を見つけて、俺はつい焦って強く腕を引っ張ってしまった。
「きゃあっ!」
体勢を崩したユキが尻餅をついて呻く。
俺は慌てて怪我をしていないかユキの体を見回した。
とりあえず目立った怪我はない。
幾分ほっとして顔を上げると、ユキが心底怯え切った表情で俺を見上げていた。
そしてその視線は静かに俺の右手へと下りていく。
不思議に思って自分の右手に目をやると、俺の右手にはいつの間にかナイフが握られていた。
古びたナイフで刃先は欠けてしまっているが、ユキの恐怖心を煽るには十分過ぎる代物だ。
「っ……」
それを見たユキは引きつった悲鳴を上げて闇の中へと逃げて行った。
「ユキ!!」
俺はナイフをその場に捨てて、慌ててユキの後を追い掛けた。
どうして自分がナイフを持っていたのか、何も覚えていない。
だがこのままではまたユキが発作を起こしてしまう。
ただでさえ体が弱いのに、これだけ精神に大きな負担が掛かればいつ倒れてもおかしくはない。
もう体力はとっくに限界を迎えているはずだ。
それでも走り回る力が残っているのは、単に恐怖心で無理やり体が動いているからだろう。
これ以上、ユキに負担を掛ける訳にはいかない。
やがて辿り着いたのは惨劇の理科室だった。
壁の血飛沫は消えて、奥に積み重なった骨の山も無くなっていたが、あの光景を思い出すとどうしても寒気がする。
「ごほっうっ」
机に手をつきながらユキは苦しそうに呼吸をした。
ずっと叫び続けたせいでもはや呻き声すらまともに出せないのかもしれない。
俺は一つ深呼吸すると優しい声でユキに語り掛けた。
怯える必要はない。
これからは俺がお前を守ると、幼い子供に言い聞かせるように何度も繰り返した。
ユキは今、気が動転している。
この状態のまま放って置けば必ずまた発作を起こして生死の境を彷徨う事になる。
とにかく一度落ち着かせて体を休めなければ。
俺が何度もめげずに説得を繰り返すと、だんだんとユキの呼吸が落ち着いてきた。
ほっとしてユキに近づこうと足を踏み出した次の瞬間、後頭部に強い衝撃を受けて俺は床に倒れ伏した。
耳鳴りがする。
目の前が歪んで胃がひっくり返りそうな吐き気がする。
誰かの笑い声が聞こえた。
視線だけで辺りを見回すと、窓際にある椅子にサチコが座って面白そうにこちらを眺めていた。
「っ……」
声を出そうとしたが、言葉になる前に呻き声に変わった。
震えるユキの前に誰かが立っているのが見えた。
背格好からすると男のようだが顔は見えない。
目の前が霞んで意識が薄れていく。
ようやく会えたのに、ユキの姿が歪んで見えなくなってしまう。
ただそれが怖くて俺は必死に妹に向かって手を伸ばした。
無駄だとわかっていても、そうするしかなかった。
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