Book of Shadows
「旦那様!」
「!」
はっとなって目を開けるとそこは見慣れた自分の部屋だった。
ゆっくりと身を起こすと側にいた使用人がほっと安堵の表情を浮かべた。
「おはようございます、旦那様。うなされているご様子でしたが、お疲れでしょうか?それならば本日の会食は……」
「キャンセルしろ」
俺がそう言うと使用人は頭を下げて、奥の部屋へと入って行った。
その後ろ姿を見てようやく現実に戻って来たのだと実感がわいた。
窓から差し込む朝日が全てを浄化するように悪夢の世界を打ち消していく。
「……」
額に手を当ててそっと目を閉じるとまぶたの裏に妹の……ユキの姿が浮かび上がった。
あどけなさを残した無邪気な笑みと、桜の木の下でじっと俺を見下ろす虚無の瞳。
何も知らないままだったら、きっといつかは現実を受け入れて吹っ切る事ができたのかもしれない。
それがどれほどの罪なのか、今ならよくわかる。
「……おい」
戻って来た使用人に俺はユキの事を尋ねてみた。
答えなんか訊かなくてもわかりきっている事だ。
案の定、使用人は不思議そうな顔で首を振った。
そう言えばこの男が家に来たのは俺が大学を卒業した後だったな。
中学生の時に失踪したユキの事を知らなくても無理はない。
俺は朝の準備を整えると目についた使用人に片っ端からユキの事を尋ねて回った。
だがあいつの事を知る人間は誰一人いやしなかった。
俺の右腕として常に側に控えている執事でさえユキの事は何も知らないと言う。
仕方なく俺はその日の予定を全てキャンセルして忍足と宍戸に連絡を取った。
中学時代からの付き合いである忍足達とは今でも時々連絡を取り合っている。
だが顔を合わせるのは久しぶりだ。
夜になって馴染みのバーに顔を出すと、そこには既に二人の姿があった。
俺は天神小学校の悪夢について二人に色々と尋ねてみた。
だがやはり忍足達もユキの事は何も覚えていなかった。
代わりに白檀高校の生徒について尋ねてみると、忍足からある程度の情報を得る事ができた。
忍足は天神小学校の別館で白檀高校の生徒である黒崎、袋井、美月という3人に出会ったらしい。
俺が見た犠牲者の記憶の中にもその3人は存在していた。
やはりあれはただの悪夢ではなく、14年前に実際に起きた出来事だったのだ。
俺は残った3人、霧崎凍孤、卜部恵美、そして刻命裕也について二人に訪ねた。
すると忍足が刻命について知っている事を話した。
「何だと?」
「せやからあの日から行方不明のまんまや。黒崎達は行方知れずの刻命を置いて天神小学校から逃げ出したんや」
それは予想外の言葉だったが、妙に納得がいった。
確かに刻命という男は精神的にも不安定で危険な人物のように思えた。
見知った女を平気で殴り飛ばす冷酷さと、常識を覆すような信じがたい出来事にも全く動じない冷静さを兼ね備えた人物だった。
そんな男がユキと行動を共にしていた事にも驚いたが、何より刻命裕也という人間が現実世界で認識されている事に俺は驚いた。
天神小学校で命を落とした者は現実世界から消失し、たとえ家族であってもその記憶から抹消されてしまうのだ。
現に俺もユキの存在をずっと忘れていた。
二人で撮った写真もユキが使っていた部屋も、あの日を最後に現実世界から消滅した。
異世界の天神小学校の消滅と共に犠牲者達の魂も解放され消滅したのではないか、というのが鬼碑忌の考えだった。
あの学校には確かに他にもたくさんの犠牲者の骸が転がっていた。
彼らの存在も現実世界から消失したのなら、天神小学校の出来事が公になっていない事にも説明がつく。
自分の子供や兄弟、毎日のように顔を合わせていた人間がいなくなっても、誰もその事に気づかないのだから騒ぎになるはずがない。
しかしこれはどういう事だ?
刻命裕也はあの天神小学校で確かに命を落としている。
理科室にあったあの死体が刻命である事は間違いない。
あの男の死がユキの死に繋がっているのだとすれば、何故刻命の死体だけが腐敗もせずに残っていたのかその見当もつく。
俺にも詳しい事はわからないし、昨日見たあの悪夢が本当に14年前と同じ天神小学校なのかどうかもわからない。
あれはただの夢で俺は何か大きな勘違いをしているだけかもしれない。
存在しないはずの妹がいるとそう思い込んでいるだけかもしれない。
それでも……確かめずにはいられない。
一度手にしてしまった希望を手放す事はもうできないのだ。
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