零章 残留
中庭に出た私は降り注ぐ雨の中バレッタを探した。
枯れた花壇や焼却炉の後ろ、地面に膝をついて隅々まで探し回ったけどバレッタは見つけられなかった。
がっかりして校舎内に戻ると、廊下にぽつぽつと赤い滴が落ちていた。
さっきはこんなものなかったはずだけど……。
不思議に思いながら滴を辿って行くと、二階の理科室に辿り着いた。
そっと扉を開けると、机の前に一人の男子生徒が立っていた。
振り返ったその人は、私が持っていた学生証の顔写真と同じ顔をしていた。
「お兄ちゃん……?」
じっとお兄ちゃんらしき人を見つめるけど、やっぱり何も思い出せない。
「君は……」
「あの、ごめんなさい。私、何も覚えてなくて……」
私は軽くパニックになりながらブレザーのポケットから学生証を取り出して彼に渡した。
「これポケットに入ってたんですけど、あなたの学生証ですよね?」
彼はしばらく学生証を見つめた後、頷いてそれをズボンのポケットにしまった。
「記憶がないと言ってたね?」
「あ、はい……。自分の名前も思い出せなくて……」
「……」
刻命さんはじっと私を見つめている。
落ち着いた雰囲気の人だけど、この人が私の"お兄ちゃん"なのかな?
「……俺も"妹"を捜してたんだ」
「え?」
刻命さんの言葉に私はどきっとした。
妹を捜してるって事は、やっぱり刻命さんが私の"お兄ちゃん"なのかな?
「その妹さんの名前は?」
「いや、思い出せない」
刻命さんはそう言って首を振った。
記憶を失くしたのは私だけじゃなかったんだ。
ちょっと安心したけど、このままじゃ何の解決にもならない。
「私、大切なバレッタをどこかで失くしてしまったんですけど……見かけませんでしたか?」
「バレッタ?」
「"お兄ちゃん"から貰った物なんです。……それ以外には何も覚えてませんけど」
「……」
刻命さんはしばらく黙り込んだ後、一緒に探そうと言ってくれた。
バレッタを見つければ自分も"妹"の事を思い出せるかもしれないと。
私は刻命さんにお礼を言って二人でバレッタを探し始めた。
校舎は広いけど一緒に探してくれる人が見つかってよかった。
こんな廃校に独りぼっちでいるのは寂しかったから。
私は刻命さんとぽつりぽつりと会話を続けながらバレッタを探した。
でも小さな髪飾りは全然見つからない。
昇降口の前に来た時、私はふと向こう側に渡れなくて困っていた大穴の事を思い出した。
更衣室と書かれた扉の前に空いた廊下の裂け目。
暗くて中はよく見えないけど、ここで転んだような気がする。
「明かりを貸してくれるかい?」
私が持っていたアルコールランプを手渡すと、刻命さんは少し身を乗り出して穴の中を覗き込んだ。
「……奥に何か光る物が見える」
「え?もしかしてバレッタがあったんですか?」
「ここからじゃよくわからない。下に下りてみるよ」
「でも危ないんじゃ……」
「大切な物なんだろう?」
「……はい」
私が頷くと刻命さんはアルコールランプを穴の近くに置いて辺りを見回した。
教室の柱に結びつけられたボロボロのロープを手にして穴へと向かう。
「大丈夫ですか?無理しないで下さい」
「大丈夫だ。思った程、深い穴じゃない」
刻命さんはするするとロープを伝って下に下りると暗闇の中にしゃがみ込んだ。
「どうですか?」
「これは……バレッタだ!でも……」
刻命さんは何か言い掛けてそれからすぐ地上に戻って来て、穴の中で見つけたそれを私に差し出した。
「これ……!」
それは確かに私が探していたバレッタだった。
大きなリボンがついたお気に入りの髪飾り。
だけど綺麗な色をしていたバレッタは何故か焦げていた。
手でこすっても煤が取れない。
「あ……」
気がつくと私は泣いていた。
ぽたぽたとバレッタを持つ手に涙が零れ落ちる。
「やっぱりショックだったかい?」
私を気遣うように刻命さんがそっと頭を撫でてくれる。
「いえ、違うんです。これは……私もよくわかりません」
どうして涙が零れるのか、自分でもよくわからない。
確かに大切なバレッタがこんな姿になってしまってショックではあるけど、それより無事に手元に帰って来た事の方が嬉しかった。
なのに、なんで私は泣いているんだろう。
私が泣いている間、刻命さんは黙ってそばにいてくれた。
落ち着いてから校舎を出ると、昇降口の前に誰か倒れていた。
近づいてみると、それは"私"だった。
血塗れのブレザーを着たまま、眠っている私。
触れようと手を伸ばして、右手が体をすり抜けた。
その時になって私はようやく気づいた。
窓から見えた赤い光が夕日ではなく"炎"だったのだと。
木造の校舎が赤い炎に包まれながら燃えている。
私達はずっと燃え盛る校舎の中にいたんだ。
崩れ落ちる校舎を眺めても、記憶の糸を辿る事はできなかった。
お兄ちゃんの事もやっぱりよく思い出せない。
だけど私の手の中にはお兄ちゃんから貰ったバレッタがある。
淡い記憶の断片に過ぎないのかもしれないけど、私に残されたただ一つの思い出だ。
「刻命さん?」
ふと顔を上げると刻命さんが私の髪にバレッタをつけてくれた。
「……"妹"の事は思い出せないけど、"君"が俺の妹ならいいとそう思う」
刻命さんはそう言うと私が返した自分の学生証を燃え盛る炎の中に投げ込んだ。
「いいんですか?」
「……ああ。もう必要ない」
「……」
私達は並んで崩れ落ちる校舎を見上げた。
"私"はもう存在しない。
ここに残った"私"はただの残骸なのかもしれない。
「ユキ」
刻命さんがそっと手を差し伸べる。
今、私の名前を呼んだの?
ユキ……それが私の名前なの?
……思い出せない。
差し伸べられた手に自分の手を重ねると、一瞬だけ私を優しく抱きしめてくれるお兄ちゃんの事が頭を過ぎった。
繋がれた手をぎゅっと強く握り締める。
何も思い出せないまま、私はきっともうすぐ消えてしまう。
でも私は独りぼっちじゃない。
"お兄ちゃん"と一緒に逝ける。
漂う線香の薫りに、風になびく髪が、地についた足が、薄れて消えていく。
繋いだ手の微かなぬくもりだけが、私の不安を消し去ってくれる。
お兄ちゃん……
私は安らかな気持ちでそっと目を閉じた。
END.
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