第十三章 狂騒

ユキが次に逃げ込んだのは中庭だった。

壁に囲まれた小さな庭にあるのは枯れ果てた花壇と大きな桜の木、そして古い焼却炉だけだ。

ユキは窓の向こうを刻命が通り過ぎるのを見て慌てて焼却炉の後ろに隠れた。

両膝を抱えながらじっと息を潜める。

そこでふと左足に巻いていた包帯がない事に気づいたが、今はもうどうでもよかった。

傷口からぷつぷつと血が溢れて来るが胸が苦し過ぎて足の痛みなどほとんど感じない。

「……」

ユキは刻命が更衣室の方へ向かうのを確認してそっと校舎内に戻った。

ここから逃げ出さないと殺される。

でもどこへ逃げればいい?

あれだけ探し回っても出口を見つけられなかったのに。

「……別館。そうだ確か別館があるって……」

杏達から聞いた情報を思い出してユキはなるべく足音を立てないよう気をつけながら保健室へ向かった。

その近くに別館へ続く渡り廊下があると聞いたのだ。

保健室の角を曲がってつきあたりに見える扉に気づいてユキは慌てて駆け寄った。

さっきは必死に逃げ回っていたから気づかなかったが、杏が言っていたように確かに渡り廊下がある。

静かな雨の音と霧の向こうに見える校舎。

あちらの校舎に真田達がいると神尾が言っていた。

真田達と合流できれば助かるかもしれない。

「きゃあっ!」

扉を開けて渡り廊下に足を踏み出したユキは、急に腕を引かれて後ろに倒れ込んだ。

床に膝を打ちつけて痛みを堪えながら顔を上げると、そこにはナイフを手にして笑う刻命の姿があった。

「どこへ行くんだ?ユキ、そんな事をしても無駄だって言っただろう?」

「っ……」

ユキは怯えながら逃げ出そうとするが今度はもう逃げられなかった。

刻命に片足を掴まれうつ伏せのまま廊下を引きずられていく。

遠ざかる雨の音。

やっと見つけた希望の光さえも暗闇にかき消されて、ユキはただ悲鳴を上げ続けた。

やがて辿り着いたのは惨劇の理科室だった。

ブン太達に会った時はきれいさっぱり消えていた死体の山が元に戻っている。

刻命は床に倒れたままの凍孤の遺体を邪魔そうに蹴り飛ばすと、ユキを血塗れの机の上に投げ飛ばした。

「ごほっうっ」

ずっと叫び続けたせいでもはや呻き声すらまともに出せず、ユキはされるがまま両手を包帯で縛られた。

「っ……どう、して……」

殺される間際の最後の悪足掻きだとわかっていながらユキは必死に言葉を絞り出した。

「なんで……"その人"は同じ学校の……げほっ、仲間なんでしょ……?」

「あ?」

刻命は足元に転がる死体に気づいてしゃがみ込んだ。

蹴り飛ばした衝撃で首に刺さったナイフは抜け落ちているが、見開かれたままの瞳には何も映っていない。

足に凶器を突き刺しても悲鳴を上げる事もない。

これはただの人形だ。

面白味の欠片もないが嘘を吐き続けるだけの人間よりマシかもしれない。

死体は腐るだけで何も言わないのだから。

「友達じゃ……ないの?どうして……」

ユキの言葉に刻命は嘲笑を浮かべる。

「友達?こいつはただのクラスメートだ。他の連中と同じ偽善者だ」

「っ……」

ユキは両手を縛られたままぞっとした。

目の前で笑みを浮かべるこの男に、慈悲という言葉は存在しない。

毎日顔を合わせていたクラスメートですら、道端に転がる石ころと同じなのだ。

「どうして……私を殺すんですか……?」

震えながらユキが尋ねると、刻命はナイフを手で弄びながら答えた。

「死だけは平等だ。人間も動物も死ねばやがて腐って骨になるだけ。こいつのようにな」

刻命はそう言って凍孤の遺体を足蹴にする。

「あの殺人鬼……死に魅入られた男の気持ちがわかる。死の瞬間だけは"本当"だからな」

「本当……?」

「この世は皆嘘つきばかりだ。本心を隠して、仮面を被って生きている。そんな生き方に何の意味がある?」

「……」

「本音を隠して生きるのは疲れるだろう?だから俺が解放してやるんだ」

刻命の言葉にユキは何故だか違和感を感じた。

これは、この言葉は刻命の本心なのだろうか?

「それは……あなたも同じでしょう?あなただってずっと違う"自分"を演じてたじゃない」

「……」

刻命は黙り込み、それから自分について少しだけユキに語った。

優等生の兄と姉がいる事。

生まれつき自分は"人間らしい感情"が欠如していた事。

親にも見放され、兄と姉によって"良い子"を演じるよう教育された事。

「あいつらの目はまるで化け物でも見るかのような目つきだった。どこに行っても同じだった。皆、本心を隠して"善人"を演じてる。下らない」

吐き捨てるような刻命の言葉にユキは思わず反論していた。

「違う、それは"思いやり"です」

「自分が傷つきたくないから"善人"を演じてるだけだ」

「そうかもしれない。でもそれが"全て"じゃないと思います」

自分が愛されたいからだけじゃない、他人を愛したいからそうするのだとユキは言った。

「人は一人じゃ生きていけないから。だから"良い子"を演じても人を愛そうとするんです。それがそんなにいけない事だとは私は思いません」

「……」

ユキの言葉に刻命は何故か笑みを浮かべた。

やっぱり君が欲しいと。

「どうしてそんなに"妹"が欲しいの?」

「どうして?……妹のような弱い存在がいれば、俺も"人間"になれるんじゃないかと思ってね」

「え?」

「"化け物"のままじゃ元の世界に戻っても俺のいる意味はない。あいつらのいる世界じゃ生きていけない」

狂気に満ちた声。

けれどその言葉だけは刻命の"本心"に思えた。

ずっと感じていた微かな違和感。

それはきっとこれだったのだと、今ならわかるような気がする。

刻命の中にあるのは空虚な"絶望"だ。

誰にも必要とされていない、最初から要らない存在。

だから元の世界に帰っても仕方がない、自分の居場所などない。

それはかつてユキ自身が感じていた事だった。

病弱で何の役にも立たないばかりか周りに迷惑を掛けてばかりの自分。

疲れた顔の両親や使用人を見る度に、自分など早く消えてしまえばいいと願った。

誰にも必要とされないそんな人生に一体何の価値がある?

自分は何の為に生まれて何の為に死ぬ?

望まれていない"生"に何の意味があるのか。

自分を呪って、嫌って、"死"だけが救いであるとそう思っていた。

だけどどんなに否定しても、心の奥底で"生きたい"と願う自分がいた。

誰かに必要とされたい、生きてもいいんだと誰かに許してもらいたい。

自分にとってその"誰か"は"兄"だった。

兄が自分を必要としてくれたから、生きていられた。

幸せを望んでもいいんだと、そう思えた。

だけど刻命にはその"誰か"がいないのだろう。

自分の存在を許してくれる"誰か"がいない。

だからその"誰か"を探し続けている。

たとえそれがこじつけにも似た強引な理由だったとしても、理由がなくては生きられないから。


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