第十二章 観念
二階廊下の角を曲がった所でブン太はふと人の話し声が聞こえたような気がして足を止めた。
「なあ今、あっちの方から声がしなかったか?」
「僕も聞こえた気がするよ」
「……ほんまや。応接室の方からやな」
忍足が先頭に立って応接室の扉を開けると、6つの目が同時に忍足達に向けられた。
「丸井!」
「黒崎?」
見知った顔を見つけてブン太はほっと安堵の表情を浮かべて駆け寄った。
「お互い無事でよかったな。刻命とあの子はどうしたんだ?」
「あちこち捜してるけどまだ見つかんねえ。そっちは合流できたみたいだな」
「ああ。袋井がハンマー野郎にやられて今は気失ってるけど血はもう止まってるから大丈夫だ」
忍足、田久地も自己紹介をしてそれぞれ事情を伝えると、黒崎と美月はおまじないの切れ端を手にして驚愕の表情を浮かべた。
「本当にそんなので帰れるの?切れ端を合わせてもう一度サチコさんのおまじないをするって……」
「まあ話すと長いんで説明はこんくらいで勘弁したってや。せやけど呪文の回数を間違えへんように気いつけて下さい」
「……でもこれって全員揃わないとダメなんでしょ?」
「後は刻命だけか。あいつまだ本館にいるのかな……」
黒崎は切れ端をポケットにしまいながら呟いた。
「ちょっといいかな?君達に聞きたい事があるんだけど……どこかで鬼碑忌先生に会わなかったかい?和服の男性なんだけど」
「ああ、その人なら俺見ましたよ。あっちの校舎の一階で見かけたんですけど、途中でハンマー男に出くわして見失っちまって……」
「本当かい!」
黒崎の言葉に田久地は歓喜の声を上げた。
はぐれてからようやく鬼碑忌の手掛かりを掴んだのだ。
「ありがとう。じゃあ本館に戻ってみるよ」
そう言って田久地が出口へと向かう途中、美月が思い出したように口を開いた。
「あ、そう言えば丸井君だっけ?実は私達、さっきまで幸村君と一緒にいたの」
「え!幸村君と!?」
「黒崎から本館で君達とはぐれたって聞いて、彼、君達を捜しに本館に戻ったの」
「マジかよ!くっそー、もうちょっと早く来れば会えたのに。今から追いかければ間に合うかな」
ブン太はすぐに踵を返し応接室を出て行こうとするが、それを忍足が止めた。
「ちょい待ち!またすれ違ったらどないするんや。ここはもう少し様子見るべきやろ」
「だってユキもまだあっちにいるんだろ?仁王だってどこにいるかわかんねえし……」
「せやからここは大人しゅう待てって言うとんねん。今ここで自分まで動いたら幸村が戻って来た時どないするつもりや」
ブン太は不服そうだったが忍足の言う事にも一理あるので、仕方なくここで幸村の帰りを待つ事にした。
「田久地さんはどないするん?」
「僕は本館に戻るよ。先生の事が心配だし、どの道"逆打ち"をするには先生と合流しないといけないしね」
「そうですか……」
「もし途中で君達の友達に会ったらここに来るように伝えて置くから。それじゃ」
そう言い残して田久地はカメラを片手に応接室を出て行った。
その頃、ユキと刻命は赤也達を捜して本館を彷徨い歩いていた。
途中ではぐれたブン太や黒崎も見つからず、ユキは深いため息をついて足を止めた。
「ブンちゃん達、どこに行っちゃったんだろう。もう全部捜したはずなのに……。もしかして用務員室で見た地下室みたいに、まだどこかに知らない場所があったりするのかな……」
「……」
刻命は黙って辺りを見回した後、静かな声で言った。
「もうここには俺達しかいないのかもしれない……」
「……」
ユキは続く言葉が見つからず、窓の外に視線を移した。
ここから見える景色は相変わらず陰鬱としていて希望の欠片もない。
どこまでも続く鬱蒼とした森、空に広がる灰色の雲。
静かに降り注ぐ雨が人の気配も助けを求める声さえもかき消していく。
それでも……
「……刻命さん、図書室に行ってみませんか?この学校の見取り図とかあれば脱出方法がわかるかも……」
「……」
刻命は何も答えなかった。
だがユキは気にせず歩き出した。
刻命は黙ってその後に続く。
静まり返った校舎内に二人の足音だけが響き渡る。
「……君は本当にここから出られると思っているのか?」
廊下を歩きながら刻命が呟くように言った。
ユキは刻命を見上げ、それからまた視線を前に戻して口を開いた。
「私は元の世界に……お兄ちゃんの所に帰りたいです。何も言わないままここへ来てしまって、もし私がいなくなったらお兄ちゃんはきっと……ずっと私を捜し続けるだろうから。もうこれ以上お兄ちゃんを苦しめたくないんです」
「……」
またしばらく沈黙が流れた。
歩きながら、先に口を開いたのはユキの方だった。
「刻命さんは元の世界に帰りたくないんですか?」
直球過ぎる質問だったが、刻命は特に気分を害した様子もなくただ静かに前を向いて言った。
「ここも、元の世界もたいして変わりはない。元の世界だって安全が保障されている訳じゃない。人は平気で嘘をつくし、本音を隠しながら生きている」
「……」
刻命の言葉にユキは何故だか少し寂しさを感じた。
その理由を考えている内にユキはある事に気づいてちらりと刻命を見上げた。
刻命は確かに冷静で頼れる存在だが、彼自身の"願い"を聞いた事は一度もない。
彼は出会ってから一度もここから出たい、家族に会いたい、はぐれた友達に会いたいなど、そう言った願望や思いを口にした事がないのだ。
その点は少し仁王に似ている気もするが、彼は仁王と違って感情を隠しているというより、元々存在しない空虚なものに思える。
一緒にここへ来た黒崎の事もあまり気に留めていない様子だったし、深く心を通わせる友人がいないのかもしれない。
冷静に判断を下しながらも、彼の言動にはどこか諦めにも似た雰囲気が漂っている。
まるでかつての自分を見ているかのように"生への執着心"が全く感じられないのだ。
「刻命さんは……」
ユキが言い掛けた時、ふと刻命が階段で足を止めて後ろを振り返った。
そこでようやくユキの耳にも廊下を歩く足音が届いた。
「!」
淡い期待と不安を胸に階段の踊り場で足音の主を待っていると、視界に入った彼女を見てユキは驚いて目を見開いた。
「橘さん!」
「え?跡部さん!?」
驚きの表情を浮かべる杏の後ろから橘と神尾も姿を現す。
互いに事情を話すと、ユキは赤也が近くにいる事を知って喜んだ。
「まさか他にも校舎があったなんて……全然知らなかった。もうずいぶん歩き回った気がするけど、渡り廊下なんてどこにも見当たらなかったし」
「でもよかった。跡部さんが無事で。切原君もすごく心配してたから」
「橘さんもよかったね。お兄さん達に会えて」
「はい。これから体育館で待ってる深司君達と合流するつもりです」
にこりと微笑んで杏が言うと、後ろに控えていた橘が"逆打ち"について説明した。
「それをやれば元の世界に帰れるんですか?」
「ああ。途中で見つけた鬼碑忌という作家の手帳に書いてあったんだ。真田達には悪いが、俺達は深司達と合流したら逆打ちで元の世界に帰るつもりだ。だからあいつらに会ったら伝えて置いて欲しい」
「わかりました」
「悪いな。本当は俺達も協力するつもりだったんだが、怪我人がいる以上ここに長居はできない。一足先に脱出する事にした」
「大丈夫です。教えてくれてありがとうございます」
「跡部さん達も気をつけて。じゃあお兄ちゃん、行きましょう」
「ああ」
橘や神尾と共に去っていく杏の背中を見送って、ユキは祈るように目を閉じた。
「……どうしたんだ?」
「……いえ。何でもありません。それより早く赤也と合流しないと」
誤魔化すようにユキは微笑んでまた廊下を歩き出した。
"お兄ちゃん"と呼ぶ杏の声がいつまでも頭の中でこだましていた。
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