第六章 転遷

「……赤也?」

ユキが目覚めた時、そこは暗い井戸の底だった。

3メートル程離れた頭上にぼんやりと明かりが見える程度で、自分の周囲は暗闇に包まれている。

足を滑らせて床の裂け目に落ちた事は覚えているが、その後どうなったのか何も思い出せない。

あの時後ろから誰かに殴られたような気もするが、落下した時の衝撃と恐怖であまりよく覚えていない。

「赤也ー!いないのー!」

明かりに向かって叫んでみるが返事はない。

体に巻きついた縄の先は廊下に続いているのだが、引っ張ってみても何も反応を示さない。

柱か何かに結びつけられているようだ。

「どうしよう……ねえ赤也ー!何かあったのー?返事してー!」

充満する異臭に必死で耐えながらユキは助けを求めた。

だが幾ら待っても赤也は顔を見せず、何の変化も起きなかった。

残る手段はただ一つ。

「……登れるかな」

ここから脱出するには体に巻き付けられた縄を手繰り寄せながら壁をよじ登るしかない。

暗闇の中手探りで周囲を調べてみたが、行ける範囲に役に立ちそうな物は何もなかった。

足元にはよくわからないガラクタのような物がたくさん積まれていて、これがクッションになったおかげでユキはたいした怪我もなく気絶するだけで済んだ。

よじ登るのに失敗して落ちたとしても、ガラクタがある限り致命傷にはならないだろう。

「よし!頑張ろ!」

自分を励ますようにそう言ってユキは縄に手を掛け壁をよじ登り始めた。

両手に全体重が圧し掛かり、すぐに手が痺れて感覚が麻痺してくる。

兄と同じく運動神経は悪くないのだが、いかんせん病弱で華奢なユキに体力や腕力といった肉体的強さはない。

今でこそ立海のマネージャーとして普通の生活を送っているが、去年はずっと病院のベッドで過ごしていたし、小さい頃は一日活動する事さえできず人の半分程の時間しか自由に動く事ができなかった。

そのせいかどうかはわからないが、ユキは非常に忍耐強くめったな事では弱音を吐かない。

何事も前向きに考えようとする明るさがあり、マイナスをプラスに変える為の努力も惜しまないのだ。

その一方で病弱な自分に嫌悪感を抱き、自分をないがしろにし過ぎるきらいがある。

どうしても自分より他人を最優先に考えてしまうのだ。

優しさ故と言えばそれまでだが、それがさらに兄の心配性を加速させる原因にもなっている。

「っ……もうちょっとっ」

震える両手で縄を握り締めながら右足を上げた瞬間、老朽化した壁がばりっと剥がれ落ちて左足が滑った。

「痛っ」

鋭い痛みと熱が走り、両手から力が抜けて縄が緩む。

明かりがどんどん遠ざかっていき、ユキはまた穴の底に逆戻りしてしまった。

「っ……平気。こんなの……全然大丈夫だもん……っ」

壁の突起で切り裂かれた左足の太ももから血が滴るが、ユキはすぐに立ち上がってもう一度縄を握り締めた。

これほど待っても赤也が顔を見せないという事は、おそらく赤也の身に何かが起きたのだ。

でなければ赤也が自分を見捨ててどこかに行ってしまうはずがない。

親友が危ない目に遭っているかもしれない……。

その不安がユキを掻き立てた。

「っ……やった!……はあ、はあ」

ようやく穴から這い上がる事に成功してユキは乱れた呼吸を整えながら辺りを見回した。

薄暗い廊下にやはり赤也の姿はどこにもない。

ただユキの体に巻きついた縄だけが教室の角にしっかりと結びつけられている。

「早く赤也を捜さないと……っ」

疲れ切った体に鞭打つように、ユキは縄を外して赤也を捜し始めた。

一階、二階と見て回り、三階に続く階段に足を踏み入れた時、踊り場に見覚えのあるスニーカーが転がっている事に気づいた。

近づいて拾い上げてみると、やはりそれは赤也のスニーカーだった。

「なんでこんな所に……」

嫌な予感がしてユキはスニーカーを胸に抱えたまま階段を駆け上がった。

三階は特に老朽化が激しく、天井が崩れ落ちて所々雨漏りしている。

手前側は男子便所、奥は女子便所になっており、女子便所の中からはきい、きい、という板の軋むような音が響いている。

「赤也、いる?」

薄暗い男子便所の入り口で呼び掛けてみるものの返事はない。

同じように女子便所の方も声を掛けてみたが、やはり反応はなかった。

「赤也……どこ行っちゃったの。幸村君……」

一人になると余計に心細さが増す。

前向きに考えようとしても暗闇を見ていると不安な気持ちになる。

「どうしよう……お兄ちゃん」

そっと頭に手を当てて、そこでようやく違和感に気づいた。

「あれ?」

両手で確かめてみるがやはり目的の物は見つからない。

「やだ、嘘でしょ?」

じわりと目に涙が浮かぶ。

入浴の時以外はいつも身につけているバレッタがないのだ。

海原祭の時もミーティングルームにいた時もつけていたはず。

考えられるとすれば、あの穴に落ちた時だろう。

自分の手もよく見えない程の暗闇だったので失くした事に気づかなかったのだ。

「どうしよう……でも赤也を捜さないと……」

揺れる心を煽るように扉の開閉音が響き渡る。

あのバレッタは小学生の頃、入院中に兄から貰った大切な宝物だ。

もともと体が弱くてあまり学校には通えていなかったが、持病が悪化して入院し卒業式に出られなくなった時は酷く落ち込んだ。

自分だけ取り残されるようでとても寂しかった。

そんな時兄から貰ったのがあのバレッタだった。

とても上品で綺麗な色をしたリボンと童話のアリスをモチーフにしたチャームがついた世界で一つだけのバレッタ。

それはユキにとってずっと憧れていた"外の世界"がたくさん詰まった夢の箱だった。

アリスのように不思議だらけの世界を冒険してみたいと、ベッドの上でいつも夢見ていた。

あのバレッタを見る度に少しでも早く元気になろうと、どんなに辛い治療やリハビリでも前向きに頑張る事ができた。

退院した今でもあのバレッタは元気の源のような物で、何があっても自分を守ってくれる心強い御守りなのだ。

「……お兄ちゃん」

心細さに負けて呟いた時だった。

ふとかすかに呻き声のようなものが聞こえてユキは顔を上げた。

未だ鳴り続ける扉の開閉音に混じって確かに人の声が聞こえる。

「だ、誰かいるの?」

恐る恐る薄暗い女子便所の中を覗き込むと、一番奥の個室の扉が風もないのに何故か開閉を繰り返していた。

呻き声はその中から聞こえて来る。

「……」

足元から恐怖がせり上がって来るが、確かめずにはいられない。

ユキは一つ深呼吸するとゆっくりと奥の個室へ近づいて行った。

「……え?」

だがそこで目にしたものは予想をはるかに超える衝撃的な光景だった。


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