第五章 憂苦
闇に包まれた校舎内に床の軋む音だけが響き渡る。
時折音が途切れては、またしばらくして不規則な足音が響き渡る。
助手の田久地とはぐれ一人天神小学校を彷徨う鬼碑忌は、念の為に持って来た予備のビデオカメラと懐中時計を手にしながら疼く左足に顔をしかめていた。
この学校に飛ばされてすぐ子供の幽霊に襲われて左足を挫いてしまった。
幸いにも懐に入れて置いた御守りが効いたのか、子供の幽霊はすぐに立ち去り難を逃れたが、はぐれた田久地と合流しなければ"逆打ち"を行う事はできない。
痛む足を引きずりながら田久地を捜すものの、校舎内に人の気配はない。
「っ……そろそろ限界か」
どんどん大きくなる足の痛みに耐えかねて、鬼碑忌は近くの教室に入り椅子に腰を下ろした。
左足首は紫色に腫れ上がり、それに比例して痛みも大きくなっていく。
もしかしたらただの捻挫ではなく、骨が折れているのかもしれない。
だとすれば、もはや田久地と合流するのは絶望的だ。
「私が浅はかだった。まさかこんな事になるとは……」
今更後悔しても遅い。
それはわかっているが、どうしても後悔せずにはいられない。
ここ数年思うように筆が進まず、自分自身に限界を感じる事すら多くなっていた。
自分を信じ支えてくれる田久地や七星の為にもここで筆を折る訳にはいかないと執筆活動を続けて来たが、読者の反応はあまり芳しくなかった。
色々自分なりに手は尽くしてみたものの、同じ場所でずっと足踏みを続けているような……そんな虚しい日々から逃れられずにいた。
そんな時、七星が"幸せのサチコさん"という都市伝説を見つけて来た。
かつて忌まわしい事件が起きて閉鎖された"天神小学校"を発祥地としたおまじないで、そのモデルとなった"サチコ"という少女は実在する人間だった。
昭和28年に起きた女子児童失踪事件、その被害者が篠崎サチコだ。
行方不明になった後しばらくして天神小で"サチコ"という名の霊が目撃されるようになり、いつからかサチコさんの霊に会うと望みが叶うというような噂が立つようになった。
それが"幸せのサチコさん"のルーツだと思われるが、それ以上の事は何もわからなかった。
鉄筋コンクリートの校舎が建てられた後もサチコさんの噂は学校の七不思議の一つとして語られていたようだが、後に起きた"連続児童誘拐殺人事件"によって学校は閉鎖され老朽化した旧校舎も取り壊されてしまった。
それ故に詳しい資料が存在せず、篠崎サチコの失踪事件についても情報は得られなかった。
八方塞がりとなった自分達に残された道は、"口寄せ"を利用して今は存在しない"天神小学校"へ向かう事だけだった。
サチコさんの霊が実在するのであれば、口寄せを逆に利用する事で死者の世界へ入り込む事ができるのではないか……。
推測でしかなかったが結果は大成功だった。
非科学的な現象であっても確かな証拠を持ち帰る事ができれば、死後の世界は存在すると証明する事ができる。
たとえそれが失敗に終わろうとも、この体験を活かして新たな作品を生み出す事ができる。
そう、起死回生の第一歩になるはずだったのだ。
「田久地君は無事だろうか……」
椅子に腰掛けたまま鬼碑忌は窓の外に目をやった。
外は相変わらず霧に包まれていてよく見えない。
ただかすかに窓を叩く雨音だけが響いている。
同じ場所に存在していても出会う事ができないというこの天神小学校の異空間は完全に想定外だった。
これが死者の世界に足を踏み入れた者への天罰だとすれば、後悔は残るが受け入れる事はできるだろう。
だが自分はともかく助手の田久地はただ巻き込まれただけに過ぎない。
逆打ちは同じ人形の切れ端でなくては効果を発揮しない。
このままここで自分が朽ち果てたとしたら、田久地も道ずれになってしまうのだ。
それだけは回避しなくてはならない。
罰を受けると言うのであれば、自分だけで十分だ。
「……今の私にできる事……」
悩んだ末、鬼碑忌はいつも持ち歩いている自分の手帳に今の状況や心境などを綴る事にした。
もし自分がここで息絶えたとしても、いつかこの手帳が誰かの目に触れればその人物の助けになるかもしれない。
作家として生きると決めた以上、何があろうとも筆を折る訳にはいかない。
希望を捨ててはならない。
「ここが天神小である事は間違いない。だが篠崎サチコが生きていた昭和初期の天神小とは異なる部分も確かにある。……この異空間はサチコだけが作り出したものではないのか?」
考えれば考える程、謎が深まっていくような気がする。
だが篠崎サチコが鍵を握っている事に変わりはない。
迷宮入りとなったサチコの失踪事件……。
その謎が明らかになれば、この異空間から脱出する手掛かりが見つかるかもしれない。
「うっ……まずはこの足をどうにかしなくては」
痛みを堪えながら廊下に出ると、自分ではない別の誰かの足音が聞こえた。
自分達を襲った子供の幽霊は霊体の為か足音はしていなかったので、生きた人間である事は間違いない。
「田久地君……なのか?」
僅かな希望を抱いて暗闇に懐中電灯を向けると、ぼうっと白い人影が浮かび上がった。
だが目を凝らしてみると、そこに居たのは助手の田久地ではなく制服姿の少女だった。
「七星君……!どうして君がここに!」
一瞬目の錯覚かとも思ったが、目の前にいるのは確かに見慣れた少女だった。
「先生……」
「七星君、君まで来てしまったのか……」
まだ幼さを残す少女を危険に晒してしまった事に不安が募るが、同時に奇妙な安心感も感じている。
長年会っていなかった家族に再会した時のような、懐かしさと喜び。
駆け寄って声を掛けようとした次の瞬間、腹部に鋭い痛みが走って声が途切れた。
「っ……七星……君……」
突然体に襲い掛かった痛みよりも、何故という疑問の方が大きかった。
七星は時折周りが驚く程の行動力を見せる事もあるが、同じ年頃の少女達に比べると頭の回転が速くしっかりしている。
幾ら常識では考えられない非科学的な状況に陥ったとしても、パニックになるような事はないだろう。
そんな彼女が何故?
「先生が私に黙って天神小へ行ったのは私が邪魔だったから?……私が賞を取ったせいで先生の作品が評価されなかったから?……だから先生本当は私を怨んでた……?」
虚ろな目で独り言を呟くその姿は、七星であって七星ではなかった。
彼女を危険に晒すまいとして取った行動が、彼女に大きな誤解を与えてしまったのか。
この天神小学校に漂う霊気を浴びて呪いに魂が侵食されてしまったのか。
いずれにしろ、今の七星は正気を失っている。
「七星君……気をしっかり持つんだ。うぐっ……呪いに負ければ、魂を……喰われてしまう……!」
鬼碑忌は七星の肩を掴んで正気に戻そうと説得を試みたが、七星は腹から引き抜いたナイフを再び振り上げて鬼碑忌に襲い掛かった。
「っ……」
血が着物に染み込んでどっしりと重くなっていく。
だが出血のせいか体は軽い。
「先生の為なら何だってするのに、先生は私が邪魔なの?憎いの?どうして私を置いて行くの?どうして!!」
凄まじい形相で叫ぶ七星に、鬼碑忌は背を向けてその場から逃げ出した。
このままでは確実に殺される。
あれが七星の本心であれ呪いの影響であれ、彼女を殺人犯にする訳にはいかない。
「ぐっ……」
傷口を押さえながら闇の中を突っ切るが、意識が朦朧として足元が覚束ない。
挫いた左足も感覚が麻痺して普通に歩く事さえできない。
七星はすぐにでも追いついて来るだろう。
このまま走って逃げ切るのは難しい。
「先生!!どうしてなの!!どうして!!」
「っ……」
迫り来る七星の怒声に促されるように、鬼碑忌は近くにある用務員室の中へ飛び込んだ。
ここには確か押入れがあったはずだ。
明かりを消して闇に身を潜めれば、あるいは気づかれずに済むかもしれない。
どの道この出血では意識を保っていられるのは後数分といったところだろう。
僅かな可能性に賭けるしかない。
「!」
鬼碑忌は押入れの中に入ると懐中電灯の明かりを消して息を潜めた。
心臓の音が聞こえてしまうのではないかと不安に思う程、煩く鳴り響いている。
「……」
足音が近づいて扉の開く音が響き渡る。
木片を踏みつける音、畳を歩く足音。
静寂の中で神経が研ぎ澄まされていく。
やがて、音が止んだ。
静まり返った暗闇の中でかすかな息遣いだけが響き渡る。
「……先生」
開いた襖の向こうに血走った目でこちらを見つめる七星の顔が浮かんだ。
「七星君……どうして君がこんな事に……っ」
「!」
そこから先は、ただ惨劇だった。
体に走る激痛、逆流する血で詰まる喉、悲鳴にも似た声で叫び続ける七星の姿。
闇に目が慣れる頃には全身の感覚が鈍くなって眼球ですら思うように動かせなかった。
遠ざかる音と命の灯。
最後に見たのは、泣きながら笑い続ける少女の姿だった……。
→To Be Continued.
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