第五章 憂苦

リビングのソファーに座って跡部は深いため息をついた。

色々手は尽くしているもののユキの精神状態は日に日に悪化していく。

明るく純粋だったユキが、自分を拒絶し、世界を拒絶して壊れていく。

そんな妹の姿を見ているのは跡部にとって何より辛い事だった。

理由もわからない、何を考えているのかもわからない。

どうしたら大切な妹を救えるのか、それさえわからない。

悪化していくユキと同様に、跡部もまた疲弊していた。

「景吾坊ちゃま」

ぼうっと天井を見つめていた跡部は執事の声に意識を引き戻した。

事情を聞いて許可を出すと、しばらくして二人の男子生徒が部屋に入って来た。

跡部と同じ氷帝テニス部に所属する忍足侑士と宍戸亮だ。

二人はユキの見舞いを兼ねて跡部の様子を見に来たようだった。

執事が人数分の飲み物と軽食を用意して部屋を出て行くと、忍足が先に口を開いた。

「だいぶ調子悪そうやな。とりあえずこれ渡しとくわ。監督から預かって来たんや」

「ああ……」

紙袋に入った書類を受け取って跡部は頷く。

全国大会は終わったがテニス部の部長としてやるべき事はまだ山ほどある。

だがユキの精神状態が悪化してからは、ほとんど学校にも通えていない。

使用人達からも敬遠されているユキを支えられるのは、昔から兄妹を知っている執事と跡部だけだ。

両親は多忙でなかなか家には帰れないし、今のユキは誰かが見張っていないと何をしでかすかわかったものではない。

今以上に精神状態が悪化すれば、家で暮らす事すら難しくなるだろう。

「おい、大丈夫かよ」

ぼうっと書類を見つめたままの跡部の顔を宍戸が心配そうに覗き込む。

「……ユキちゃんの様子はどうや?」

「相変わらずだ。ずっと架空の人間の話をしてる。……今は薬で眠ってるが油断はできない」

元々兄と同じ氷帝学園に通っていたユキは、忍足達とも顔見知りで仲が良い。

時折こうして様子を見に訪ねて来る部員はいるのだが、今のユキに会わせる訳にはいかない。

「なあ跡部、ちょっといいか」

宍戸はそう断りを入れてから身を乗り出して話し始めた。

「実は一昨日、忍足と立海大附属中へ行って来たんだ」

「アーン?何の為にだ」

「そら決まっとるやろ。ユキちゃんの話がほんまかどうか確かめに行ったんや」

「……」

跡部は無言のまま先を促す。

すると宍戸が鞄から一冊のノートを取り出して跡部に差し出した。

使い古されたノートの表紙には"男子テニス部日誌"と書かれている。

「これ立海テニス部の日誌なんだけどよ。ちょっと確認してみてくれ」

「……」

跡部は言われるがままノートを開いて日誌を読んだ。

ユキの言う"赤也"を捜す為に立海大附属中には何度も足を運んだが全て無駄足だった。

そんな生徒がテニス部に所属していたという話も聞かなかったし、学校の生徒名簿にも存在していなかった。

今更何か新しい発見があるとは思えないが……。

「ほら、そのページの下の方。そいつじゃねえのか?ユキが言ってた"赤也"って奴」

「!」

日誌を読んでいた跡部は存在するはずのない名前を見て自分の目を疑った。

そこには確かに"赤也"という人物が練習試合で勝利したと記されていたのだ。

それだけではない。

他にも幸村、柳、ジャッカル、丸井、仁王、柳生と言った人物の事が記されている。

どの名前も立海テニス部の名簿には載っていなかった名前だ。

「馬鹿な……。これを一体どこで手に入れやがった?」

宍戸は一度忍足に確認を取ってから跡部に向き直って答えた。

「真田の家から預かって来たんだよ」

「何?」

跡部は驚いて目を見開く。

王者立海の皇帝・真田弦一郎。

その名は中学テニス界では知れ渡った名前であり、立海大附属中を三連覇に導いた伝説の男として知られている。

「真田もユキがおかしくなった日から病院に入院してるらしいな」

「ああ。話は聞いている」

「それで真田の家に話を聞きに行ったんだ。入院してる真田には面会できなかったからな。もしかしたらユキがおかしくなったのと関係があるかもしれないって忍足の奴が言うからよ」

「ま、門前払いってオチやったけどな」

「でも真田の祖父さんが何か手掛かりになるかもしれないからって真田の部屋を調べさせてくれたんだよ」

「そこでこれを見つけたって事か」

「そういうこっちゃ。この日誌は一時期の間、真田が個人的に書いてた物らしいで。日誌に書いてある事がほんまの話やったら、部長の"幸村"が病気で入院してる時に書いてた物や」

「……」

跡部はもう一度日記に目を通す。

真面目な真田らしく日誌は毎日欠かさず記されており、誰がどんな行動を取ったのか、仲間同士の人間関係なども詳しく書かれている。

テニス部のマネージャーを務めていたユキの事も記されており、日誌によると同じクラスの切原赤也といつも一緒に行動していたようだ。

負けは許されない王者の掟の中で確かに築かれていた固い絆。

やはりユキの話は本当だったのだろうか?

「だがどういう事だ?立海テニス部の部長は"幸村"なんて名前じゃねえ。ここに書いてある奴らの事は俺も調べたが立海は勿論、他のどの学校にも存在していなかった」

「そうだけどよ……だからってあいつの話が全部"嘘"とは限らねえだろ?」

「!」

宍戸の言葉に跡部は頭を殴られたような気がした。

明るく健気だった妹を取り戻したい一心で、ユキの精神状態を安定させる事ばかり考えていた。

ユキが話す"赤也"の事も"空想の産物"だと決めつけていた。

そんなものはこの世のどこにも存在しないのだとユキに理解させる方法だけを考えて、ユキの話を受け入れる事をしなかった。

だからユキは怒ったのだ。

嘘つきだと。

「……」

跡部は深いため息をついて日誌に目をやった。

自分がユキの話を受け入れれば、ユキは元の明るく素直な妹に戻ってくれるのだろうか。

また"お兄ちゃん"と可愛い笑顔で呼んでくれるのだろうか。

「跡部」

考え込む跡部に忍足が声を掛ける。

「実は真田の祖父さんからもう一つ気になる事を聞いたんや。真田が入院する前、祖父さんに話したっちゅー"おまじない"の話や」

「まじない?」

「"幸せのサチコさん"って言うらしいで」

「何だそれは。そもそもあの堅物がそんな物を当てにするのか?」

「まあそう焦らんと。ちょい待ってや」

言いながら忍足は鞄の中からノートパソコンを取り出して慣れた手つきで起動する。

「俺も意外や思てたけど、これ見てみい」

「アーン?」

跡部がパソコンの画面を覗き込むと、そこには"七星の霊界情報局"というブログが表示されていた。

女子高生霊能師・冴之木七星という人物が書いた日記で、都市伝説や怪奇現象などについて書かれている。

その中に"幸せのサチコさん"というおまじないについて書かれた記事があった。

友達同士の絆を固く結び、生涯の友人として一緒にいられる事を誓うおまじないとして、その方法や材料となる形代が載っている。

「これを真田がやったってのか?」

「そうらしいな。でもあいつはこのまじないは間違ったやり方で、失敗すると"天神小学校"って言う異世界へ飛ばされるって言ってたらしいぜ」

「異世界?ハッ、まさか奴がこんなオカルトじみた話を信じてやがるとはな」

「自分と一緒におまじないをやった仲間達はその学校で死んで、自分とユキだけがこの世界に帰って来たって……そう言ってたらしい」

「何だと?」

跡部の眉間に皺が寄る。

「チッ……真田の野郎、俺様の知らねえ内にユキに余計な事を吹き込みやがって」

「せやけど、もし真田の話がほんまの事やったら、ユキちゃんの話とも辻褄が合うんとちゃう?」

「……」

「ユキちゃんは仲のええ友達が消えていなくなった言うてたんやろ?真田も同じ事言うてたらしいで。けど祖父さん以外はあいつの話を信じようとせんかった。そんで病院に入院させられたっちゅー話や」

忍足は真剣な表情で話すが、跡部は取り合わなかった。

「てめえらまで何言ってやがる。これ以上俺様の頭を混乱させんじゃねえ」

「まあ普通に考えれば、この日誌もおまじないの話も全部真田の妄想やな。けどユキちゃんはどうなんや?」

「……何が言いたい」

「そらユキちゃんは素直で純真やけど、こんな妄想話まで信じると思うか?」

「……」

「ユキちゃんは立海のマネージャーやし、副部長の真田とも仲が良かったのかもしれへんけど、幾ら何でもこんな話そう簡単には信じられへんやろ」

「だったら何だ?真田の妄想が全部真実だとでも言うつもりか?」

「そらまだわからへん。実際にやった訳やないし、真田から直接聞いた訳でもないしな」

忍足の返答に跡部は深いため息をついて額に手を当てた。

「もういい。用が済んだならとっとと帰れ。これ以上下らねえ話に付き合ってる暇はねえ」

「おい、跡部!」

宍戸が食い下がろうとした時だった。

家中に甲高い女の悲鳴が響き渡った。

「な、何だ今の悲鳴?」

「おい!何の騒ぎだ!」

跡部達が廊下に出ると、使用人の一人が真っ青な顔で跡部のもとに駆け寄って来た。

「景吾さん、大変です!中庭でお嬢様がっ」

「!」

使用人の報告に跡部は弾かれるように中庭へと駆け出した。

その後ろから忍足と宍戸も続く。

「ユキ!!」

跡部が庭に飛び出すと、そこには目を疑うような光景が広がっていた。

遅れて来た忍足と宍戸も驚愕の表情を浮かべて立ち尽くす。

「っ……坊ちゃん、ナイフを!」

切羽詰まった執事の声に、跡部はガーデンテーブルの上に置いてあるナイフを手に取って駆け出した。

そしてすぐさま木の後ろに回って絡まっているロープに刃を滑らせた。

「宍戸!」

「!」

駆け出す忍足の声に我を取り戻した宍戸も続き、執事と一緒に木にぶら下がったままのユキの体を支えた。


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