Book of Shadows
「じゃあユキ、また明日!」
「うん!またね!」
学校からの帰り道、途中の十字路で友人と別れるとユキは足早に家へと向かった。
国語の授業の間もそうだったが昨日家に連れて来られた犬の事が気になって仕方がなかったのだ。
「ただいまー」
玄関で靴を脱ぎリビングに入ると忙しい母に代わって家事をしている姉に出会った。
姉は大学を卒業したら婚約者と結婚する事が決まっているので花嫁修業をしているのだ。
「ユキ、お帰り。今日は早いじゃない」
「だって昨日運ばれて来たココアが気になるんだもん」
「あら、もう名前付けてるの?」
「うん。だってあの子茶色くてふわふわしてたから可愛い名前がいいなって友達と考えたの」
「ふふ、ココアなら庭で兄さんが面倒みてるわよ」
「もう動いて大丈夫なの?」
「ええ。目立った怪我もないし、念の為検査もしたけど健康そのものだって」
「ほんと?よかった!」
「ただやっぱり飼い主は見つからないみたいね。まだ小さいし、首輪も付けてなかったから捨て犬じゃないかってお父さんが話してたわ」
「ココアはあんなに可愛いのに……」
「そうね……」
「ねえお姉ちゃん、もしココアの飼い主が見つからなかったら家で飼えないかな?私、ちゃんと毎日お散歩もするしブラッシングだって一人でできるよ」
姉は少し困った笑みを浮かべてユキの頭を撫でた。
「私もそうしたいけどまだ飼い主がいないと決まった訳じゃないし、しばらくは様子を見る事になると思うわ。それでももし引き取り手が見つからなかったら、後はお母さんの説得ね。ユキが良い子にしてたらきっと頷いてくれるわよ」
「うん!」
嬉しそうに笑ってユキは庭へと走って行った。
動物病院を営んでいるユキの家では色々な動物が保護されるが、中にはなかなか飼い主と連絡がつかない動物もいる。
その時は引き取り先が見つかるまで家で世話をする事も多く、庭は結構広い。
鞄を置いて庭に下りると、小屋の前に兄とココアと名付けられた子犬がいた。
楽しそうに尻尾を振っているココアを見てユキも満面の笑みを浮かべて駆け寄る。
父親の後を継ぐ為に獣医を目指している兄は動物好きで子犬の扱いにも慣れている。
兄は今、研修の為に離れて暮らしているが、今日は用事があって家に来ていたようだ。
「ココアか。うん、良い名前なんじゃないか?こいつも喜んでるみたいだし」
「家で飼えたらいいのになー……ミックがいなくなってすごく悲しかったけど、でもやっぱりこうやって動物と触れ合うの楽しいもん」
ミックというのは2年前に他界した兎の名前だ。
仕事で海外に移住する事になった親戚から引き取った兎だったが、幼いユキの一番の友達でいつも一緒にいた。
さすがに老齢だったのでユキが中学に上がる前に死んでしまったのだが、それ以来家では動物を飼っていなかった。
忙しい時はユキも家の手伝いをしているので動物の世話には慣れているのだが、やはりペットの死はショックが大きかったようだ。
「ん?電話だ。ユキ、ちょっと外すからココアを見ててくれ」
「うん、わかった」
携帯電話を耳に当てその場を離れる兄を見送った後、ユキは小さなココアと一緒に夢中になって遊んだ。
するとそこへ聞き慣れた足音と共にもう一人の兄が姿を現した。
学校から帰って来たばかりなのか制服姿で右手には鞄を持っている。
「あ、お兄ちゃん、おかえりなさい!」
満面の笑みでユキが出迎えると、その後に続くようにココアが駆け寄って来てワンと吠えた。
「ただいま。元気になったみたいだな」
事故に遭い気を失ったまま連れて来られた子犬を見て兄が言うと、ユキは頷いて子犬の体を撫でた。
「あのね、この子飼い主さんがまだ見つからないんだって。だからしばらく家でお世話する事になったの。名前はココアだよ」
ユキの話を聞いて兄がふっと笑みを浮かべる。
「もう名前を付けたのか。じゃあ俺もそう呼ばなきゃな」
「ねえお兄ちゃん、まだ夕飯まで時間あるし、公園までココアを連れて散歩しに行こうよ。今の時間なら人も少ないし大丈夫でしょ?」
「そうだな……」
今帰って来たばかりなんだけど、という言葉を飲み込んで兄は仕方なく頷いた。
「あら、今から公園に行くの?」
「うん。ココアも元気になったし、ちょっとだけならいいでしょ?」
「そうね……」
可愛く首を傾げるユキを見て、姉は苦笑を浮かべて頷いた。
「わかった。暗くなる前に帰って来るのよ」
「うん!ちょっと待っててねココア、今リード取って来るから!」
ぱたぱたと走り去る足音を聞きながら姉が弟を振り返る。
「裕也が一緒なら大丈夫だと思うけど、最近この辺りも不審者とか多いから気をつけてよ。この間も痴漢騒ぎがあって大変だったんだから。ユキから目を離さないで」
「ああ」
「全くもう嫁入り前なのにこれじゃ娘を持つ母親の気分だわ。お母さんの気持ちがよくわかる。あんなに可愛い娘がいたらそりゃ心配にもなるわよね」
「姉貴だって娘だろ」
「あたしはほら、護身用に合気道も習ってたし。変な奴に絡まれたって自力でなんとかするけど、ユキはそうはいかないじゃない?だからもう心配で……」
深々とため息をつく姉を見て裕也は肩をすくめて苦笑する。
「わかったよ。なるべく早く帰って来るようにするから」
「お願いね。まあユキはあんたに懐いてるから大丈夫だと思うけど」
そう口に出してから姉は少し拗ねたように唇を尖らせた。
「ずっと妹が欲しいって思ってたのに、まさかあんたに一番懐くとはね……。やっぱり年が離れてるせいかしら。あたしや兄さんにはあんまり踏み込んでくれなくて寂しいわ」
「そんな事はないだろ」
「だってユキったら昔からあんたにべったり張りついて離れないじゃない。もう彼氏とかいてもいい年頃なのに、男の子の話題はさっぱり。まああたしもその方が安心できるんだけどね」
寂しいと嘆く姉の言葉通り、ユキは一番年の近い裕也によく懐いていた。
小さい頃はお兄ちゃんのお嫁さんになると言い張り、いつも後ろをくっついて歩いていた。
末っ子だからか両親や長男もユキの事をとても可愛がっていて、そのせいでユキは14歳の中学生には見えないほど甘えん坊になってしまった。
甘やかしてるという自覚はあるものの、ユキの可愛らしい笑顔を見るとつい頬が緩んでしまい、強く叱る事ができないのだ。
まあ叱るほどユキはお転婆ではないし、学校でもしっかり勉強して友達も多いので問題はないのだが。
「お兄ちゃん、準備できたよ!」
リードに繋いだココアと共に戻って来たユキが満面の笑みで告げると、裕也は着替える間もなく制服のまま、また家を出て行った。
ココアを連れて二人で公園までの道のりを歩いていると、不意にユキがある事を思い出しておずおずと口を開いた。
「あのねお姉ちゃんが言ってたんだけど、お兄ちゃん……今つき合ってる人とかいる?」
「どうしたんだよ突然。なんでそんな事を?」
「だって私がお兄ちゃんに甘えてばっかりだから彼女も作ってる暇ないんだってお姉ちゃんが言ってたから」
「……」
唇を尖らせながら俯いて話すユキは明らかに不機嫌そうだ。
そんな妹を見て裕也は口元に笑みを浮かべながら言った。
「俺はユキと一緒にいる方が楽しいよ。だから何も気にしなくていい」
「本当に?」
「ああ」
裕也が頷くとユキは笑顔になって軽い足取りで散歩を始めた。
本当にわかりやすい少女だと思う。
こういう裏表のなさが周りの人間に好かれる理由なのだろうと納得がいく。
だがもう少し成長して姉くらいの年になれば、無邪気な少女も大人の女性になる。
そうなれば、もうこうして二人で肩を並べて歩く事はなくなってしまうかもしれない。
所詮、兄は兄。
それ以上にはなれないし、それ以下でもない。
なら今一緒にいられる時間を大切にしたい。
いつかユキの前に白馬の王子様が現れるその日まで、騎士となってその身を守ろう。
それが自分にできる最大限の努力だ。
「あ、今日もボールの音が聞こえる。またテニス部の人達が練習してるのかな?」
音が聞こえた方へ向かうと、テニスコートで中学生達がボールを打ち合っていた。
ここではよく見かける光景だが、ユキが通う氷帝学園のテニス部は全国にもその名が轟く程の猛者が集っている。
特に男子テニス部は部員数200人を超えたらしいと白檀高校でも噂になっているくらいだ。
「やっぱりあそこで試合してるのテニス部の人達だ」
「知ってるのか?」
「男子テニス部のレギュラーの人達は皆有名だから」
「確かに上手いな」
「去年は準決勝で負けちゃったけど、今年はどうなるだろう」
興味津々といった様子でユキはテニスコートを見つめている。
「テニスに興味があるのか?」
「え?うーん、少し。体育の授業とかでやった事はあるけど、どっちかって言うと応援する方が好きかな」
「マネージャーとか?」
「そうかも。でもレギュラーの人達って学校のアイドルみたいな存在だから、マネージャーは募集してないんだって。前にも色々と騒ぎがあったみたいで、部長さんがそう決めたらしいよ。テニス部の部長さんは生徒会長だから、先生と話し合ってそう決めたんだって。ほら、あそこにいる人がテニス部の部長さん」
そう言ってユキが一際目立つ男子生徒を指差すと、ふと一瞬目があったような気がした。
「……そろそろ行こう。日が暮れると姉貴達が心配するから」
「うん」
ユキは頷いてココアの散歩に戻った。
去って行く兄妹の様子を、テニスコートに立ち尽くしたまま跡部景吾はじっと見つめていた……。
→あとがき
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