Book of Shadows

暗闇から現れたのはいつか学生証の顔写真で見た男子高校生だった。

その顔を見た瞬間、ユキが大きく目を見開いて慌てて駆け寄った。

「お兄ちゃん!」

「……?」

一瞬思考回路が停止したように感じた。

ユキは今、確かに"お兄ちゃん"と呼んだ。

だがそれは明らかに俺ではなく目の前にいるこの男に向けられた言葉だった。

「よかった、無事に会えて……。お兄ちゃん、怪我とかしてない?」

「いや……大丈夫だ」

男の視線が俺に向けられ、ユキが慌てて説明をした。

だが俺はそれどころではなかった。

一体これはどういう事なんだ?

何故この男がユキに"お兄ちゃん"と呼ばれているんだ?

年上だからか?

いや、親戚にも同じ年頃の従兄がいるがユキはそんな風に呼んだ事はない。

「それでお兄ちゃんを捜してたの。だってお兄ちゃんの切れ端は私が持ってるんだもん。たとえ帰る方法を知ってたって切れ端がなきゃ逆打ちはできないもん」

「逆打ち……そう言えば用務員室で見つけたメモにも同じような事が書かれていた。それをやればここから出られると」

「うん。やっと帰れる……。きっと皆心配してるだろうから早く帰らなきゃ」

「……」

会話を続ける二人を、俺はどこか客観的に眺めていた。

演技中の役者を見ているような、そんな気分だ。

だが目の前にいるのは間違いなく俺の妹だ。

「……どういうつもりだ?」

無意識の内に言葉が漏れていた。

男がこちらを振り返りじっと俺の目を見つめる。

間違いない。こいつはユキが持っていた学生証の人物……刻命裕也だ。

二人が天神小学校で一緒に行動していた事は知っている。

だがどうしてユキはこいつを兄と呼ぶのか。

「ユキの兄はこの俺だ」

「……」

向かい合う俺達の横でユキが戸惑いながら口を開く。

「兄って……どういう事ですか?だってお父さん達に言われて私を捜しに来たって……」

「さっきは確かにそう言ったが、それは嘘だ。ここで説明してもただお前を混乱させるだけだと思いあんな事を言った。だがお前が俺の妹である事は間違いない」

「え?」

「俺の名前は跡部景吾。お前の双子の兄だ」

「!」

ユキが驚いたように俺を見上げる。

すぐには呑み込めないかもしれないが仕方がない。

俺以外の男を兄と呼ぶユキの姿など、俺は見たくない。

「……」

ユキはしばらく黙り込んだ後、困ったように刻命を見上げた。

すると刻命はあろうことか俺に向かってユキの兄だという証拠を見せろと言ってきた。

頭に血が昇りそうになるがここで言い争っていても解決にはならない。

俺は仕方なくズボンのポケットを探った。

悪夢の世界で自分を見失わないよう、眠る前に本人確認ができる免許証をポケットに入れて置いたのだ。

普段自分で車を運転する事はめったにないが、持っていた方が何かと便利なので大学時代に取得したのだ。

俺が免許証を見せると刻命は一つユキに頷いて、それから俺に向き直って言った。

「兄妹にしてはだいぶ年が離れていると思うが?」

「あれから10年以上経ってるからな」

「10年?」

俺はここが悪夢の世界であり、天神小学校の一件から既に14年が経っている事を二人に説明した。

一度は記憶を失い、そしてあの本によって全てを思い出し望みを叶える為にここへ来た事を。

だが俺が説明すればするほどユキは困惑し俺を警戒した。

無理もない反応だが、とにかく逆打ちをして元の世界に戻れば俺の言う事が真実だとわかるだろう。

そうすればもうこの男を兄と呼ぶ事もなくなる。

「……」

ユキと刻命はしばらく黙り込んだ後、まだ半信半疑といった様子ではあったが逆打ちをする事に同意した。

だがここで問題となったのは切れ端の数が合わない事だった。

俺の持つ切れ端は1枚。

これは刻命と共にここへ来た霧崎の切れ端で、当人はもう死んでいる。

そしてユキが持つ刻命の切れ端。

霧崎の切れ端と逆打ちを行えば儀式は成功するはずだが、ユキは律儀にも俺の目の前で持っていた切れ端を学生証ごと刻命に返してしまった。

そしてなんと刻命も校内で拾ったというユキの生徒手帳を本人に返してしまったのだ。

あれには確かに切れ端が入っているが、それは幸村達と行ったおまじないの切れ端であり、俺の持つ霧崎の切れ端では逆打ちは行えない。

この状態で3人で逆打ちを行えば、あの時と同じようにユキだけが悪夢の世界に取り残されてしまう。

ネクロノミコンには"死者の掟"に従わなければ願いは叶わないと記されていた。

その掟というのが逆打ちを示しているのだとすれば、おそらく俺の持つ切れ端で逆打ちを行わなければ効果はない。

俺自身は切れ端がなくても目が覚めれば現実世界へ戻れるのかもしれないが、それはユキのいない無機質な世界に戻るという事だ。

それでは意味がない。

「……」

俺は悩んだ。

二人にはまだ"同じ人形の切れ端"でなければいけないというルールは話していない。

だから3人で逆打ちを行い、一人が取り残されてもそんなルールは知らなかったと言えば誤魔化せる。

だが……これではユキが取り残されてしまう。

どうすればいい?

どうにかして刻命から切れ端を奪い、逆打ちを行うか?

だがすっかり刻命を信用しているユキの目の前でそんな事をすれば、ユキは当然反発するだろう。

他の切れ端を探すにしても、白骨死体で溢れているこの学校でどうやってそれを見つけ出せと言うのか。

卜部の持つ切れ端が使い物にならなかった以上、白檀高校の切れ端は2枚しかない。

……どうする?どうすればユキを救える?

必死に頭を回転させながら切れ端を見つめていると、ふとユキが僅かに震えている事に気づいた。

「どうした?寒いのか?」

「あ……いえ、その……」

何かを言い掛けてユキはすぐに口を閉じ俯いてしまった。

寒い訳ではなさそうだが、どうにも様子がおかしい。

心配になって見つめていると、ユキが観念したようにおずおずと口を開いた。

「その……家に帰れると思ったらほっとして……おトイレに行きたくなっちゃって……」

言いながらユキの頬が赤く染まっていく。

恥ずかしさもあるのだろうが、もしかしたらずっと我慢していたのかもしれない。

俺は一旦考えるのを止めてトイレに行く事を提案した。

三階にある女子便所は床が腐っていて使えそうになかったが、プールサイドにあるトイレはまだなんとか使えそうだった。

水が流れるかどうかは疑問だが、この状況で贅沢は言っていられないだろう。

ユキは恥ずかしさを紛らわすように足早にトイレの中へと入って行った。

俺と刻命は少し離れていて欲しいとユキに言われ、更衣室近くの壁際で待つ事にした。

「……」

静寂の中に雨音だけが響き渡る。

ポケットに片手を入れたまま、俺はまだ決心がつかずにいた。

ユキを救う為なら何でもすると誓ったが、よもや殺人まで犯す事になるとは思っていなかった。

だがもうこれしか方法が見つからない。

理科室で霧崎の死体を探った時、切れ端とは別にもう一つある物を見つけたのだ。

おそらくこれが霧崎の命を奪った物だと思うが、何かあった時の為にと俺はそれをポケットに入れて置いたのだ。

それは、血に染まった一本のナイフだった。

変色した血で錆びているようにも見えるが、切っ先は鋭くまだ十分殺傷能力はある。

……やるしかない。

ユキのいない今がチャンスだ。

刻命さえいなくなれば、切れ端を奪い逆打ちを行ってユキをこの悪夢から救う事ができる。

死体を更衣室の暗がりにでも隠してしまえば、後は先に逆打ちを行って帰ったとでも言えば誤魔化せるだろう。

個人的な怨みはないが、ユキを救う為なら俺は鬼にだってなってやる。

「っ……」

俺はぐっと強くナイフを握り締めると、壁際に立つ刻命に向かってナイフを振り下ろした。

だが俺の奇襲を予想していたのか、刻命はとっさに身を屈めて俺の攻撃を避けた。

「……気づいてたのか」

「あれだけ殺気を放ってれば誰だって気づく」

殺されかけたにも関わらず、刻命は口元に笑みを浮かべていた。

「今すぐ切れ端を渡すのなら殺しはしない」

「……」

脅してみたが刻命は軽く肩をすくめるだけで切れ端を渡そうとはしない。

やはり逆打ちについて話した時から気づいていたのだろう。

同じ人形の切れ端でなくては儀式は行えないと。

そして俺の目的が切れ端を奪い取る事だと。

「切れ端を渡せ!」

「!」

静かな雨が降り注ぐ中、俺達は争いを続けた。

生き残りを賭けたサバイバルゲームのように、生と死の狭間を彷徨い続けた。

だがそこに子供の笑い声が聞こえた瞬間、俺は思わずそちらを振り向いてしまった。

水道場の側にサチコが立って笑っている。

にたりとした笑みを浮かべて争う俺達を眺めている。

サチコを見ていたのはほんの一瞬だった。

だがその一瞬を刻命は見逃さなかった。

「!」

気がついた時には雨に足を取られ、体勢を崩したところに肘打ちを食らって俺はナイフを手放してしまった。

そこから先は映画のスローモーションのように見えた。

転がったナイフを刻命が拾い上げ、俺の喉に突き立てる。

呼吸が止まって溢れた血で激しくむせ返った。

急速に意識が遠のいていく。

聞こえるのは静かな雨の音とサチコの笑い声だけ。

俺を見下ろしながら刻命が何か言ったような気がした。

声は届かなかったが頭の中に直接意識が流れ込んで来た。

「お前さえいなくなれば、俺が"兄"になれる……」

薄れゆく意識の中ではっきりと聞こえた。

諦めるつもりだった。

けれどあの輝きを見てしまった。

だからもう諦める事はできないと。

それが俺の意識だったのか、それともあいつの意識だったのか、今となってはもうわからない。

ただそれは純粋な祈りのように思えた。


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