大切なこと

雪男が燐を忘れてしまった。このことがメフィストの耳に入ったのは、その日の晩のことだった。
信じられない、とメフィストは彼らしくもなく目を丸くした。何しろメフィストの知っている奥村雪男という少年は、誰よりも何よりも、自分の身よりも兄である燐を大切に思っている。それが兄弟以上の想いであることも、メフィストは気付いていた。

「あの、奥村先生が。なるほど、おもしろい能力を持った悪魔がいる、と」

どうしたものか、とメフィストは考える。雪男は燐になくてはならない存在だ。制御するにしても、フォローするにしても。
彼らがどんな状況か、メフィストは小さくため息を吐いた。彼らしくもない。

「まったく……あの人が残した宝たちは、世話が焼けますねぇ」

ひとまず様子を見なければ。メフィストは楽しそうに口許を緩ませた。



****



雪男は念のため、と検査を受けに行ってしまった。おそらく、悪魔の影響を受けているためだ。
どうしよう、と燐はベッドで膝を抱えていた。どうしたらいいのか、燐には何もできない。

『りん?ゆきおは?ゆきおはまだかえってこないのか?』
「クロ……」

クロが心配そうに燐を見遣る。しょんぼりと耳は垂れ、尻尾も力なく下を向いている。

「検査するだけ、ってメフィストのやつが言ってた、から」
『けがしたのか!?』
「いや、そういうわけじゃねぇけど」

何と話していいか分からない。燐の混乱はひどかった。雪男と共に雑木林を出て、他方から悪魔を探っていた祓魔師と合流しても、学園に戻ってメフィストと話しても、雪男の身に起こったことをうまく説明できなかった。
当の雪男といえば、悪魔の放った白い光を浴びたことなど、燐のことを覚えていない以外、何の支障もないようだった。それが余計に、燐は苦しかった。

『りん?ないてるのか?』
「……泣いてねぇよ」

涙は出ない。ただ、ひどい虚無感と焦燥感が燐を襲う。

「俺のせいだ……くそっ……」

ぼすん、と燐は枕を殴る。それとタイミングを同じくして、部屋のドアが開かれた。入ってきたのは、雪男だった。

『ゆきおー!おかえり!』
「ただいま、クロ」
「ゆ、きお……」

にこりと笑い、クロの頭を撫でる。その姿は任務に行く前の雪男と変わらない。
燐が掠れた声で名を呼ぶと、雪男は困ったように笑った。

「どうやら僕は悪魔の力を受けて、貴方のことを忘れているみたいです。理事長からすべて聞きました。兄弟なんですよね、双子の」
「……敬語とかいらねぇから」

声が小さくなってしまう。まるで他人のような話す雪男は、燐の知る雪男のままだったけれど、雪男ではない。
敬語で話されることが嫌で。貴方と呼ばれたことが嫌で。燐はぎゅう、と膝を抱え込んだ。

「兄弟、だし……俺ら」

本当はそれだけではなかったけれど。記憶のない雪男に、燐はそれ以上だったとは言えなかった。

「そう、だよね。うん、ごめん」
「……雪男」

崩れた口調は、雪男が今では燐にしか使わない言葉遣いだ。少しほっとして、燐は抱えていた膝から手を離す。
こうしていても何も変わらない。雪男の記憶は、悔やんでいても戻らないのだから。

「何か分かったのか?」
「ああ、検査?特には何も。僕の推測だけど、おそらく調査中の悪魔の能力なんじゃないかな。光を直接浴びた人の記憶を食らうのかもしれない」
「じゃあ、その悪魔をなんとかすればいいんだな?」
「確証はないよ。何しろ、前例がないわけだからね」

雪男の話を聞きながら、燐はあのとき少女の言っていたことを思い返す。
あったかい。きれい。ほしい。確かにそう言っていた。暖かくて、きれいだから、欲したのだろう。

「燐が無事でよかったよ」
「え?」

思考が途切れる。雪男は今、何と言った。燐は一瞬、分からなかった。

「僕は燐のことをすごく大切に想ってた、って聞いたんだ。燐の無事な姿を見てすごく安心したから、それを聞いて納得したよ。本当に燐が――」
「ま、まま、待った!り、燐ってお前!」

何度も名前で呼ばれ、燐の顔は熱くなる。雪男は普段、燐を兄さんと呼び、特別なときにしか燐とは呼ばない。燐はかぁ、と赤くなる顔を手で隠した。

「燐?」
「な、なんでもねぇよ!それよりお前、疲れてんだろ!風呂入って寝ろ!」
「え?あ、うん。じゃあ」

無理矢理雪男を部屋から追い出すと、燐は熱っぽくため息を吐いた。
こんな緊急時なのに、名前で呼ばれて照れるだなんてどうかしている。それでも、雪男があまりにも当たり前のように、前と変わらない顔で呼ぶから、燐は妙に照れてしまった。

「ばっかじゃねぇの!」
『りん?どうしたんだ?だいじょぶか?』
「寝る!」
『うん?おやすみー』

頭がパンクしてしまいそうだ。雪男の記憶はなくなってしまったというのに、そこにいるのはやっぱり雪男で。雪男が居なくなってしまったわけではなくて。だけど、その雪男は燐のことを名前で呼ぶ。
どうしたらいいか分からず、燐はそのまま倒れるようにして眠ってしまった。目が覚めたら、どうしようかとかそんなこと考えることもできずに。


つづく


記憶なし雪男に兄さんでなく、燐と呼ばせたかっただけです。


11.05.29


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