兄弟
いつからだっただろう。雪男の背が、大きく感じるようになったのは。
前を歩く雪男の背中を眺めながら、燐はふと考えた。
昔はずっと、自分の方が雪男を守ってやるんだと思っていた。けれども、今の雪男は、燐が守らなくても十分に強い。
燐よりも背は高くなったし、祓魔師としても燐よりも強い。知識だって、燐よりもずっとある。
「……遠いな」
思わず、言葉がこぼれた。無意識に手が雪男へと伸びる。
指先がコートに触れそうになった瞬間、
「兄さん?」
雪男が振り向いた。燐は慌てて伸ばした手を引っ込めた。
無意識だったから、自分でもどうしてそうしたか分からず、自分の手を見つめて首を傾げる。
分からない。ただ、遠いと思ってしまった。
生まれる前からずっと一緒で、生まれてからもずっと一緒で。でも、一緒ではいられなくて。
そんな雪男が遠いと感じ、淋しく思ってしまった。
目の前にいるはずなのに、随分と遠く感じた。理由は、よく分からないけれど。
「どうしたの?」
「いや、何でも、ない?」
「何で疑問形なのさ」
ここにいる。雪男はどこにもいかない。
どこかへ行くとしたら、おそらく、燐の方だ。
燐はらしくもなくため息を吐いた。
「なあ、雪男」
「うん?」
もう一度聞きたかった。でも、聞くのが怖かった。
しかし、今聞かなければ、この先ずっと、逃げっぱなしになってしまう。それは燐の望むところではない。
意を決して雪男を見つめると、燐は一つ息を吐いた。
「前にも聞いたけどよ、お前……俺のことどう思ってんだよ」
悪魔である以上、危険対象である。
雪男は前にそう答えた。その言葉に、きっと嘘はない。
けれども、共に過ごしてきた時間が、危険対象に対するものとは違うように燐は思っていた。
現に、雪男は燐に対しては多少短気なところも見せる。まだ兄さん、と呼んでくれる。
願いを込めるよう、燐は雪男をまっすぐ見つめた。
「どうって……兄さんこそ、僕のことどう思ってるのさ」
「はぁ?」
「僕は、ずっと……」
言葉を詰まらせる雪男に、燐の心臓が痛いほど脈打つ。
もし、兄弟だなんて思っていないと言われたら、燐にはどうしようもない。
「兄さんは、兄さんだ。悪魔でも、単純でバカなところは変わらないしね」
「おいこら、どういう意味だ!」
「そのままの意味だよ。本当に、兄さんはバカだね」
ふぅ、とため息を吐いた雪男が、燐の頬に手を伸ばす。指先が触れた。
「バカだね、兄さん。どう思ってるかなんて、聞いちゃってさ」
「雪男?」
「本当に、バカだよ」
「バカバカ言うな!」
バカを連呼されては腹も立つ。ただ、今は頬に触れる雪男の指に対する照れ隠しだった。
雪男の目が細められ、わざとらしく作った笑みとは違う、昔からよく見てきた笑顔になる。
「どう思ってるか、聞いちゃっていいの?」
「あ、ああ……聞きたいんだよ」
「もう戻れないよ。言った以上、僕は手を抜くつもりはない」
「わ、かった」
燐の体が硬くなる。どんな言葉が返ってくるか分からないが、雪男は嘘も建前もなく、本心を語ってくれるだろうと思ったから。
不意に腕を引かれ、近くにあった教室へと押し込まれる。
「雪男?」
バタン、とドアが閉じ、辺りの音はなくなる。
教室内は暗く、窓から入る光だけだった。燐からは逆光となって雪男の表情は見えなかった。
「僕はね、ずっと兄さんのことをただ兄さんだと思えなかった」
燐の息が詰まる。
それはそうだ。雪男は生まれたときに燐から魔障を受け、物心つく頃には燐がサタンの落胤であると知っていた。
ただ、その言葉は燐が一番怖がっていた答えだった。
「そうか……」
ようやく絞り出した声は、随分と力ないものになってしまった。
情けない。弟のたった一言で、こんなにも弱くなってしまうなんて。
「好きなんだ。兄さんが」
「え?」
俯き掛けた顔が、上がる。
一瞬、雪男が何を言ったのか、燐には理解できなかった。
「ずっと、昔から好きなんだ。兄さんは僕の兄さんで、家族で。でも、好きだ。好きなんだよ」
「ゆ、雪っ――」
「もう、手加減してあげないから、覚悟しておいてね」
燐には見えなかったけれど、雰囲気で雪男が笑ったような気がした。
どうしていいか燐が混乱していると、不意に雪男の顔が近付く。頬に、暖かくて柔らかなものが触れた。
「悪いけど、僕が勝つよ、兄さん」
そう言って雪男は燐の隣をすり抜けて教室を出た。
残された燐は、今の雪男の言葉と行動を反芻し、その場にへたり込んだ。
「は、あ?なんっ……はぁああああああ!?」
好きだと雪男は言った。言って、頬にキスを残した。
つまり、なんだ、兄弟としての好きとはちょっと違う。
手加減はしないと、覚悟をしろと言った。つまり、どういうことだろうか。
理解の許容範囲を越えた出来事に、燐は一人、ただただ混乱するばかりだった。
この勝負、勝つのはどっち?
おわり
一旦口に出したら開き直ってガンガンいこうぜになる、そんな雪男と、たじたじな燐が書きたかったんです。
11.05.06
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