特に用もなしに会議室のドアを開け放ち、誰もいないと思っていたのにも関わらず、そこに居た人影に驚く。ノエルは近寄ってその人に声をかけた。勿論、突っ伏している身体を揺らすことも忘れない。
「ハンジさん、起きてください。風邪引きますよ」
「んん…、ノエル…?」
焦点の合わない瞳をこちらに向け、もごもごと言葉にもならない何かを呟くその姿はまさに寝起きと言ったところだ。ハンジはノエルを視界に認めると、先刻より幾らかはっきりした声音でお早うとだけ呟いた。
「また、なんでこんなところで寝てるんですか」
「なんでだろうなあ…廊下歩いてたのは覚えてるんだあ」
「それ、そのまま耐え切れなくなって適当にここに入ったってことですよ…」
壁外調査の前は流石に休息を取っているようだが、余裕があるときはいつもこれだ。研究と実験に没頭し、書物を読み漁り、気が付いたら三日連続徹夜していたというのも珍しいことではない。今回も恐らくその類だろう。
「研究もいいんですけど、あまり無理しないでください。いつか死にますよ」
「はは、ありがとね。でも別に無理はしてないよ。辛いわけじゃないしね」
突っ伏していた身体を伸ばしながら、ハンジは静かに笑った。頬杖を付いて隣の椅子を引き、ノエルも座りなよと一言。大人しくその椅子に腰掛けて、ハンジを見やった。
「巨人のことがわかればさ、もっと効率的に巨人を倒せるようになるかもしれない。もしかしたら人間が直接戦わなくて良くなるかもしれない。犠牲を出さずに巨人を倒せれば…人類の勝率は上がるかもしれない! そう思ったらわくわくするんだ」
ハンジはただの好奇心から研究に励んでいるわけではない。勿論それは周知の事実だし、だからこそハンジ自身も調査兵団の分隊長として任を任されている。いつだって人類の未来のために、自身が出来る解決策を模索している。そんなハンジだからこそ、周囲もついていくのであり、ノエルもついていくことを決意した兵士の一人だ。
「ね、ノエル」
「なんでしょう」
頬杖をついていないほうの腕をそっと伸ばして、ノエルの頬に触れる。触れた手の体温がやや低くて、どきりとした。ハンジの手はそのまま輪郭に沿って頬を撫でて、膝の上にあったノエルの手を取った。
「新しく何かがわかって…何か効果的な対策を取ることが出来れば、君が生き残る可能性だって勿論上がるんだ」
壁の外に出たら、そこは巨人の領域。今までなんとか生き延びてきたノエルも、ハンジも、いつなんどき、どうなるか分からない領域。ノエルの預かり知らぬところでハンジが死ぬことも、ハンジの目の届かないところでノエルが死ぬことも、十分有り得る話だ。皆がそうだ。
「…わたしが生き残れるなら、ハンジさんだって生き残れますよ」
「はは、そうだね。勿論私だって死にくない。だから研究してる。大義名分を掲げるなら、人類のため。だけどね、」
手を握るハンジの手に力が篭った。頬杖を付いていたときのような緩い表情は、そこにはもうなかった。
「君と生き残りたくて、探してるんだ。未来ってやつを」
ね、だからまだ、一緒にいて。
そう囁いた声が静かな会議室に霧散して、わたしの中に取り込まれるのだ。