『ほらエレン、早くしないと置いてくよ』

そう言っていたのは何時の話だろうか。とても足が速くて、いつも町並みを一緒に駆けてはハンネスさんに危ないと怒られた覚えがある。勿論アルミンとミカサだって一緒だった。巨人の侵攻があったときも同じようにシガンシナを脱出して、同じように訓練兵になり、同じように、訓練兵団を卒業する予定だった。



『ノエル! …ノエル!』
『落ち着きなさい、イェーガー。少し頭を打っただけだ。…アッカーマン、彼女が起きるまで一緒にいてあげなさい』

立体起動装置の訓練中、足を滑らせたノエルが落ちて行った。
担架で運ばれるノエルと、付き添いのミカサの背中が遠くなる。

『もう1週間も目を覚まさないんだぞ!? おかしいだろ!』
『エレンやめなよ! 医療課の人たちが今、ノエルのことを、』

意識の回復しないノエル。
ざわめく医療課の人間ども。

『…ミカサ、どうだった』
『……エレン、アルミン、聞いて』

『――― ノエルは、』


ノエルが落ちてから、4ヶ月近くも経っていた。
ノエルは、起きなかった。



「じゃあまた明日。遅れないでよ!」
「おう、お疲れ。明日も頼むぜ、アルミン」
「また明日、エレン」
「ああ、またな」

再来月に控えた壁外調査の打ち合わせやら会議やらがひと段落し、やや早く業務が終わる。エレンは会議の終わったその足で、兵舎の一番端にある小さな部屋に出向いた。与えられている小さな鍵を使って鍵を開ける。室内は綺麗に清掃されており、窓際にあるチェストには、先日ミカサが活けたのであろう花が飾ってある。チェストの傍には真白なベッドがひとつあった。逆に言うと、それしかない。ベッドの周りには医療課が設置していった医療器具がひしめいていて、この部屋の生活感の無さに拍車をかけているようだった。エレンは静かにベッドに近づき、そのベッドの中にいる女性に声をかけた。

「…元気か、ノエル」

返事はない。自力で移動しない彼女は、何年も寝たきりなせいか、兵団の所属している女性は勿論、一般の同年代の女性より細く、小柄だった。子供の頃の面影を残したまま成長し、それでも尚目を開けない彼女の頬に、エレンはそっと触れた。ぴくぴくと、薄い瞼の下にある眼球が震えているのがわかる。

「今日も会議があってさ、こないだ壁外調査があるってこと教えたろ? それの話をしてたんだ」

「最近はジャンがなんかすごくてよー、あいつも成長したよなあ」

「分隊長がな、今日も白熱しててさ」

「…ノエル」

ベッドの端に腰かける。シーツがくしゃりと寄れる。ノエルの頬に触れても撫ぜても、瞼が微かに震える以外の反応はない。今更何か変わるとは到底思えなかった。医療のことはなにひとつわからない。医者である父がここにいたら、何か変わっただろうか。ノエルは笑っていただろうか。

「…なあ、ノエル」



今頃、俺はお前と一緒に、壁の外にいるはずだったのに。一緒に、壁の外を跳んでいるはずだったのに。駆けているはずだったのに。

『ほらエレン、早くしないと置いてくよ』



置いていかれたのは、果たしてどちらだったのか。





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