「リオちゃん?」
背後から聞こえてきた声に、私は身を硬くせざるを得なかった。事の始まりはいつだったろう。
ダイゴさんの婚約者が、留学から帰ってきた。もう数年ほど会っていなかったみたいだった。でも、2人の仲の良さは変わっていなくて。式はいつですか、と冗談まじりに聞いた覚えがある。あのときはまだ何も考えていなかった。だってダイゴさんは、私にとって大切な、旅の仲間だったから。
出会いは至って普通だった。カントーのイワヤマトンネルで出会ったのがきっかけだった。気がついたら一緒に旅をしていた。私の向かう場所と、彼の行きたい方向が一緒だったから。彼が実家に帰ると言ったときも、ホウエンに行ったことがなかった私は即決で一緒に向かったし、私が実家に帰ると言ったときも彼はシンオウの地下通路に用事があると行って2人で戻ってきた。ずいぶん長いこと一緒にいたんだなと、そう思った。
そろそろ実家に帰るよ、ある日ダイゴさんはそう私に告げた。式を挙げるのかという私の問いに、彼は首を縦に振った。あいにく私はトバリで借りていたアパートから実家があるナギサに戻るごたごたがあったので、式には行けないと伝えた。そのときの彼の顔といったら、君には見てほしかったんだけどなあ、僕の晴れ姿、残念そうに、でもすごく嬉しそうに、笑ってた。
あれからだった。
長いこと一緒にいたせいで、何か勘違いをしていたらしい。ただの一般トレーナーの私と、ホウエン一の大企業の息子であるダイゴさん。胸が痛かった。私の隣からダイゴさんがいなくなるということに、耐えられない気がした。姿を見るのも怖くて、離れていくことに恐怖を感じて。石のことについて話すダイゴさん、エアームドをなでるダイゴさん、意外と子供っぽくて大人気ないダイゴさん、私を呼ぶダイゴさん、私の知らない誰かと結婚する、ダイゴさん。隣にいて笑って、そんな日々が今はもう届かないと思うと、やっぱり胸が痛んだ。ダイゴさんがシンオウを発つ日まで、私は極力外に出ないようにして過ごした。その日が明日に迫っていた。私はブラッキーをつれてナギサへと向かった。満月が綺麗だったのだ。
「リオちゃんじゃないか、もう会えないかと思ったよ」
何も言わない私の隣に腰掛けて、ダイゴさんはまた口を開いた。
「何かあったのかい? トバリにいても会わないから」
「いーえ、特に何も?」
嘘をついた。変わった。主に私の心境が。
「嘘つき。顔に出てるよ、嘘ついてますって」
大体君がデパートにいないなんてそもそもおかしいだろう、そういうダイゴさんを丸無視して口を開く。
「明日早いんじゃありませんでしたっけ、大丈夫なんですか?」
「…無視かい」
「見てくださいよ、満月ですよ」
「…」
「くわえて私のブラッキー! さすがにげっこうポケモンですよね、」
「…リオちゃん」
「昼間に見るエーフィもいいけど、私はこっちのほうがやっぱり好きだなあ」
「リオちゃんってば!」
私を呼ぶ声が強くなった、と、同時に、視界にダイゴさんが現れた。
「なんで、泣いてるの」
「何か、あったの」
泣いてる? 私が?
理解するより先に、それが頬を伝って流れたのがわかった。じっと、ダイゴさんの目が私の目を射抜く。月があんまり明るいから、逆光で表情までは分からない。涙、なんて。どうして。
異変に気づいたブラッキーが、走って戻ってきた。ダイゴさんの姿を確認したのか、彼は勢いよく私とダイゴさんの間に割って入り、マスターに何をした、とばかりに威嚇する。
「違うよ、いいの、」
何が違うというのだろう。何も違ってはいない。直接的でないにしろ、意図的にでないにしろ、私はダイゴさんに傷つけられた。でもそれはダイゴさんのせいでもないし、もちろん私のせいでもない。腕を伸ばしてブラッキーを後ろから抱きしめる。あたたかい。新しく流れた涙が彼の細やかな体毛の中に吸い込まれていく。振り向きざまにぺろりと涙をぬぐってくれる彼がいとおしかった。
「…別になんでもないですよ、私情です」
俯いてまた嘘をつく。ダイゴさんが寂しそうな顔をしたのがわかる。
「あのね、リオちゃん」
「はい」
「僕はね、君にとても感謝してるんだ。感謝してもしきれないほど」
そういってブラッキーの頭をなでた。
「だからさ、最後くらい君に何かしてあげたいんだよ」
「最後に…ですか」
もう、涙はでなかった。
「お気持ちだけありがたくいただいておきますよ」
私だってダイゴさんにはいろいろお世話になりましたし、そういってなんとか笑って見せた。
「だから、いいんですよ別に」
「…そうかい?」
「はい。あー、そうだなあ、ひとつ言うなら、」
「お、なんだい?」
「…しあわせに、なってください」
驚いたような顔をされた。私は立ち上がる。服についた砂を払い落とし、直立する。意図的にダイゴさんに背を向けた。もう夜も遅い。
「帰ろうか、ブラッキー」
ブラッキーをボールに戻して、ピジョットが入っているボールに手をかける。
「…っ!?」
後ろから腕が伸びてきて、私の体を捕まえた。
「…送ってくよ」
私の錯覚だと信じたい。こころなしか、ダイゴさんも傷ついたような顔をしていた。
大人しくダイゴさんのエアームドに跨った私と、私を抱きしめるように後ろに座ったダイゴさん。旅の間、私のピジョットが疲れているときによくしたものだった。
「お前に乗るのも、もう最後だね」
エアームドの頭をそっとなでてやれば、くるる、と喉が鳴った。
「あっエアームドばっかりずるい! 僕にも」
「何言ってんですかいい年して!」
しゅん、と目に見えて落胆するダイゴさんに苦笑してみせて、少し反省した。こんなやりとりも、もうきっとこれが最後。
「…今回だけですからね」
振り返って、目線より高い位置にある頭をぽんぽんと叩くようになでる。照れたように笑うダイゴさんは、慣れ親しんだダイゴさんだった。
「そういって毎回やってくれるんだもんなー」
「そういうことは思ってても言わないんですよ! これだからダイゴさんは!」
いつものように言い合いをしては迷惑そうにエアームドに鳴かれた。ごめんごめん、と謝った私もダイゴさんも、最後の時間が迫ってることに気づいていたと思う。
しばらく空の旅をしたあと、静かにトバリに着陸した。都会であるトバリは、ナギサと違ってまだ明るい。どちらも何も言わなかった。
「リオちゃん」
目だけで返事をしてみせる。
「ありがとう、長い間。本当に」
「…いえ、こちらこそ」
うまく笑えているだろうか。口元に浮かべた笑みが引きつっていないかと心配した。沈黙が私たちの間を漂った。
「明日、早いんでしょ?いつまでも道草食ってたら、寝坊しますよ」
なるべくいつもの調子で言ってみせて、今度こそ笑顔を作ってみせた。
「ホントだ、もうこんな時間…明日は見送り、来てくれるんだよね?」
「そのつもりですよ、一応」
「そっか」
ふんわりと、やっぱり子供っぽく笑ったダイゴさんはもう一度エアームドに跨った。じゃあまた明日ね、そういってダイゴさんはエアームドと一緒に宙に浮いた。
「リオちゃん!」
空中から名前を呼ばれた。顔を高くあげる。
「僕もさ、リオちゃんが幸せになれるように、祈ってるから、!」
だって、君は僕の唯一の、背中を預けられるパートナーだったんだから、そう叫んで、ダイゴさんはエアームドに指示を出して飛んでいった。結構大きい声だったけど、きっとこの街の喧騒の中じゃ私にしか聞こえない。見えなくなったダイゴさんのエアームドを思いながら、私はその場にしゃがみこんだ。隣にいられなくても、背中合わせでいられるなら。表と裏で一体なら、隣にいるより近くなるんだ、と考えて、目元をおさえてフラフラと立ち上がった。涙は出なかった。視界をふさいでいた手をどければ、やっぱりそこには満月が見えた。