「(…こねえ)」


時は夕暮れ。早めに閉めたジムの職務は、挑戦者が来なかったわけでもジムトレーナーに欠勤が多くて仕事が捗らなかったわけでもない。

「こねーなあ、ユズキの奴!」

夕方からユズキが来ると言っていたからジムも閉めて部屋も掃除して待っていたのに、一向に訪問者は訪れない。予定の時刻から1時間は経っていた。揺れる右脚を止めることもせず、ただ時計を眺める。生真面目な彼女の性格から考えて、連絡も無しにここまで遅れるのは十分異常だと言えた。

「…迎えに行くか」

外に出れば既に薄暗く、街の人も帰路を急ぐのか早い速度で歩を進めていた。その合間を縫うようにして逆走するグリーンの足も、勢いに飲まれるかのように速くなっていく。

「あ、グリーンです。ユズキいますか?」
「ユズキさん? 確かワタルさんに書類を頼まれてたのを見たけど…あっちの会議室だったかしら」

ユズキの勤め先であるリーグ本部の受付嬢に声をかければ、指で方向を示される。仕事柄顔を合わせることも多い彼女はいつもより疲れた顔をしていた。ユズキのこともある。今日は忙しいんだろうか。礼を言ってその部屋へと進む。重めのドアを押し開けた。

「ユズキ、迎えに……あれ」

広い会議室の大きな机の隅。そこにはぱっと見でもつい眉間に皺が寄ってしまいそうな書類の山と、突っ伏するユズキの姿があった。近寄ってみればよく眠ってしまっているようだった。もの珍しさに釣られて、顔を近づけて覗きこむ。きれいに塗られたマスカラが蛍光灯に反射するのが見えた。睡眠よって滲んだ上下のアイラインは、普段しっかりしているユズキとのギャップを感じさせてどこか色っぽく思えた。半開きの唇から目が離せなくなって、狼狽。

「おい、ユズキ」
「……ん」

揺り起こせばかすかな呻きと、重そうに揺れる瞼。

「迎えに来たんだけど。…大丈夫か?」
「……あ、れ。ぐりー…ん?」
「はは、すげー顔してる。大丈夫か?」
「…なんでここに」
「来ないから迎えに来たの」

滲む涙を指先でそっと押さえながら、ユズキはぶつぶつと文句を言った。要約すると寝てしまって情けない、とのこと。

「受付のねーちゃんも疲れた顔してたぜ。今日忙しいのか?」
「なんかワタルさんが急用らしくて。…これも頼まれたやつ」

待たせてごめん、そうしおらしく言うユズキに軽くぐらりときた。

「普段は俺が待たせてるからな、いいよ、手伝う。もともと明日は休みだったんだろ?」
「グリーンは仕事だろ」
「休みでいい」
「…お前、私がリーグ事務員だって忘れてないか? チクるぞ?」
「はは、嬉しいくせに」

幾分か機嫌悪くしてみせるユズキの乱れた髪を手櫛で直してやる。その表情が恥ずかしさから来るものだと俺は知っていたから。

「ほら、さっさと終わらせんぞ。ぼーっとしてんな」
「ぼーっとしてないし正直もう疲れた」
「疲れんな。おわんねーぞ」

山のようになっている書類を上から二分割して、自分の手元に置く。愛用のボールペンを取り出して姿勢を整えた。同じような姿勢をしているユズキに顎で作業を促しながら、1枚目の書類にペンを走らせる。視線が紙に注がれているのを感じながら1枚目をスライドさせて2枚目の書類に目を通した。

「…ねぇ」
「ん?」
「……キスしてくれたら、頑張るから」

小さく呟くようにして吐き出された言葉に、作業の手が止まる。顔をあげれば、薄く頬を染めたユズキがじっとこちらを見つめていた。

「…ほら」
「ん」

軽く手で合図すると、身を乗り出してくる。引き寄せられるように俺も近づけばそっと瞼が閉じられた。一瞬だけ唇にふれた。それでもしっかり重ね合わせたキスに、目をあけたユズキはどこか恥ずかしそうにしながら手元の書類にさらさらと要件を書き出した。字が踊っている。その反応を見ながら、自分の顔が緩むのを感じて慌てて口許を手のひらで覆った。



それでも君に会いたいよ





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