「おい」
空気が張り詰めていた。
「そいつ、お前のピカチュウだろ」
弱弱しく唸るボーマンダをボールに戻し、目の前の男を睨みつける。帽子を深くかぶっているせいで、顔がよく見えない。それでも、こちらを見ている目が酷く赤く、どんよりと濁っているのは確認できた。
「こーいうの、監督不行届って言うんだぜ」
しばらく視線がかち合う。やがて男はゆっくりと背を向けて歩き出した。
「おい、てめーこの…」
走って追いかけようとした矢先、突然ピカチュウが飛び上がって胸に貼りついた。
「なんだよこのやろ、この…はな、せ…?」
「ピ…」
心なしか申し訳なさそうにしゅんとするピカチュウ。仕方なく走ろうとした体制から元の体制に戻れば、ぴょこんと地面へと降り、一礼した。そんなのを見たらもう怒鳴る気も失せる。それは自分も例外ではない。
「…わーったよ、突然怒鳴ったりしてごめん。仲良くしよう」
しゃがんでピカチュウに向かって手を差し出してみれば、そこに小さな手が重なる。顔が引きつっていないことを祈りながら手を離した。先ほどの男の背に向かって走るピカチュウを追いかけて、小走りになる。しばらく行くと、やけにだだっぴろい場所に出た。こんなところがあるのか、と感心するのと同時に、驚愕する。
「雪…」
天井に開いた穴から空が見える。そこから見える空には雪がちらついていた。この場所だけ、山の中のどの場所よりも酷く異質な気がした。静寂に包まれ、雪雲に覆われる。空気は冷たいし、生きているものが存在していることすら忘れそうになる。そのくらい、どこか神々しさと、拒絶されているような威圧感があった。空間というより、この場所自体が大きな洞窟になっているのだと思った。ピカチュウがやがて足を止めたのを見計らって、速度を緩める。男は隅にある大岩に腰掛けていた。
「…さっきは、悪かったよ」
近づいて自分も座る。男のように岩に腰掛ければよかったのにわざわざ地面にそのまま座り込んだので尻が冷たかった。男がチラッとこっちを見たが、すぐに目をそらされた。期待はしてなかったとは言え、気落ちする。
「ここってあんまり人来ないしな…警戒するのも当然かと思うし」
…無視。
つい歯軋りしそうになった瞬間、ピカチュウが膝に乗ってきた。
「…ピカピ」
自分のポケモンはさすがに無視できないのか、視線だけ動かして対応する。そのまましばらくピカチュウと見詰め合ったあと、男は帽子を目深にかぶり直した。ピカチュウはそれを見届けるとこちらを向き、にっこり笑った。話しても大丈夫だ、ってことか…? 賢いピカチュウで助かる。頷いてその笑みに応える。
「ああ…僕、ユーリ。ここまで修行しに来たんだ。アンタは?」
「…」
話を聞いてるのかいないのか、微動だにしない男についまた溜息をつきそうになる。
ピリリリ…ピリリリ…
「うおっと」
けたたましく鳴り響くのは自分のポケギア。ディスプレイに表示されている名前を見て、内心ギクッとする。いかんバレたか?
「もしも、し?」
『よう…さっきぶりだなユーリ…』
「お…おう…! どうしたんだこんな急に…!」
すっと体温が下がる。電話の向こうから感じる殺気。これはやばい。
『お前はしょっぱなから何やってんだ! …この……バカ!!』
「〜…っ」
キーン。たとえるならそんな感じ。反射的に耳を離していて助かった。
「わかった、その件については反省してるんだって! ごめんって!…ええ、勘弁してくれよ…頼むよグリーン…」
ものすごい剣幕で怒鳴られたらつい泣き言も出る。不意に呼んだグリーンという名に、隣の男が反応したのも気づかずに。