8時すぎ、風呂からあがったところでちょうど誰かが尋ねてきた。吹雪なら問答無用でドアを蹴破ってでも入ってくるだろうし、藤原はこの時間帯はいつも海に散歩に行っている。
尋ねてきそうな人間はあと1人いるが、こんな夜に来るとは考えづら…
「…よう」
ビンゴだった。
「珍しいな、お前が俺に聞きに来るとは」
尋ねてきたのは予想通り柚希だった。なんでも明日提出する課題の問題でわからないところがあるので教えてほしいらしかった。
「まあ、ね。私ももう風呂入っちゃったからさ」
俺の肩にかかるタオルを指差していう。確かに今の柚希はルームウェアのような、少し緩そうな服を着ていた。
「吹雪のところになんか行けないだろ?」
冗談っぽく笑って、柚希はそう言った。
「…そうなのか?」
どう危ないのかわからないんだが、と返答すれば、柚希は困ったような顔をして、これだから亮は、とぼやいた。ときどき柚希も吹雪も、もちろん藤原もこういう顔をする。藤原は多分海にいるだろうしね、だから亮に聞きにきたんだ、と言いながら、柚希はパラパラとテキストのページをめくった。柚希も風呂上りだからか、いつもよりハネの少ない髪が彼女の顔に影を落とした。ローテーブルをはさんだ正面に座る柚希の仕草をじっと見ていると、妙に胸が騒ぐような、そんな気がした。
「ここなんだけど、」
柚希の白い指先が示すのは、数学の問題の1つだった。この問題は俺も苦労したから覚えている。
「これは、まずこのXを求めるんだ」
差し出されたシャープペンシルでノートに文字を書き付けていく。自然とその場には沈黙が広がった。
「あぁ、じゃあこのXをYに代入してから、」
「そういうことだ」
柚希はそうか、わかった、と呟いてから、疑問が解けて安心したのか思いきり脱力して座っていたソファに身を沈めなおした。何故かその仕草に、髪を梳く動作に目を奪われる。
「…亮? どうした?」
よっぽど彼女を見つめていたらしい。怪訝そうな声で呼ばれて、はっと我に返る。
「…なあ、柚希」
俺も聞きたいことがあるんだ、と言えば、さっきの俺のように、珍しいな、と返された。
「先ほどから、何か妙な気分がする」
「妙?」
「何かこう…落ち着かないような、」
少しくらくらするような気分だとか、動悸がするような気がするとか、酷く曖昧に説明する。はあ、と明らかに飲み込めていないような相槌を打って、柚希はソファから立ち上がった。少しだけ短めのズボンから覗く肌が、なぜか今は憎らしく見える。いつもの制服のズボンの方がよっぽど短いはずなんだが、本当に俺はどうしたんだろう。次の瞬間、目の前に来たらしい柚希が俺の額に手を当てた。
「熱はないと思うんだが……あ、」
そのまま俺の隣に座り、困った顔をしてまた口を開く。
「私の話に付き合ってて髪をふかなかったから、」
気がつかなくて悪かったと言いながら、肩にかかったままだったタオルを手にとり、俺の髪を拭き始めた。少し冷えたのかもしれない、申し訳ない、と謝りながら髪を拭く柚希。
高まる心拍数は、多分、気のせいじゃなくて。
困った顔の柚希を見るのも珍しいことで、なんだかよくわからないけど俺は今この状況が楽しいと思っていて、もう少し柚希の困った顔が見たいと思ったことだけは確かだった。
「亮? どうした?」
「…寒い」
え、とかなんとかいう柚希に、ゆっくりともたれかかる。
「え、寒い? マジで風邪?」
完全に困惑した声で俺を支える柚希は、俺の無言を肯定と受け取ったのか、少し落ち着かなさそうにしたあと、俺の顔を覗きこんだ。
「あー…今日、泊まっていくからさ、何かあったら私が対応するし夕飯の片付けとかもしておくから…布団入った方がいいんじゃないか」
柚希のこんな風に優しい一面を
、吹雪や藤原は知っているんだろうか。普段から一緒に過ごすことが多いが、あいつらといるときの柚希はもっと口が悪くて、ずさんで、はっきり言ってしまうならあまり女らしくないな、と前々から薄々思っていた。俺と2人でいるときはそれなりに、年齢相応の女のように見えるのだが。…でも、吹雪も藤原も、それなりにこういう一面を見ているのかもしれない、と思うと、なんだかそれはそれで妙に苦しいような、気がした。
じっと俺のことを見つめている柚希の視線に答えるように顔をあげる。至近距離でぶつかる視線が、普段は鋭いその目つきが多少やわらかくなっているのを見て、なんだか急におかしくなって、俺は吹き出した。
「な…!?」
急に笑い出した俺を見て唖然とする彼女を見て、さらに笑みがこぼれた。
「驚いたか?」
寄りかかっていた体を起こし、尋ねる。自分が何か笑いものにされていたことに気づいた柚希は、深い溜息をついた。
「まったく…吹雪みたいなことをしないでくれ。まさか亮がやるなんて思わなかったよ」
「悪かった、そう怒るな」
私のドキドキを返せ、と呟かれたのがふと耳に入ってどういうことか尋ね返せば、なんでもないと言われてこづかれた。
「ああ、でも」
少し会話が途切れたころ、ふと俺は口を開いた。柚希の視線が俺に向く。
「落ち着かなかったりしたのは本当だ」
「…そうか」
「お前に寄りかかって、安心した気分になったのも本当だ」
「…あ、ああ、そうか」
返答がおかしかったので気になって顔を見ようとすると、思い切り顔をそらされた。何故だ。
「柚希、顔が赤いがどうした?お前こそ風邪を引いているんじゃないか」
「おま…! …っ、なんでもない」
いつものように目つきを鋭くさせて、脚も腕も組んで座っている柚希に、それまでとは違う安心感を覚えた。
「あーもう、お前が遊んでいるからこんな時間になったじゃないか! 先生に外出してるのが見つかったらどうしてくれるんだ」
「泊まっていけばいいだろう」
先ほどの本人の言葉を思い出して提案する。が、なぜか必死に否定された。
「ほんとに、お前ってやつは、そういうところが無意識だから、困るんだ!」
「何の話をしている」
なんでもない! とまた言い切り、何故か非常に機嫌が悪い彼女の背中に向かって言葉を投げた。
「時間が遅いのは事実だろう、ベッドは貸すから泊まって行け」
横目で確認した時計はもうすぐ日付が変わることを示していた。確認したら急に眠気が襲ってきた。
「こんな時間に、お前を1人で外に放りだすわけにはいかない」
結局また散々悩んだあと、柚希は泊まると口にした。
ソファで寝ると聞かない柚希を仕方なく放置し、消灯する。うとうととまどろんだころ、ぼす、と隣に柔らかい重みを感じた。
「お前は本当…吹雪なんかよりよっぽどタチが悪い」
吐き捨てるように言われた言葉のあと、俺と背中合わせになるようにして、じっと縮こまった。
「落ち着かないのは、私の方だ…」
どういう意味か、よくわからなかった。思考が回らないくらい眠かったので、明日本人に聞いてみることにする。窓から入ってきた風が少し冷たかったので、俺は寝返りを打って、柚希を抱きしめた。