朝、睡眠を妨害したのは無機質な目覚ましの音で、それをぼんやり止めながら時間を確認する。連日連日、バレンタインと称して近所の犬猫がちょこまかと自分を追ってきていて、お菓子を配り歩くハメになって。ちょうど昨日、一通り配布し終えたところだった。動物ばかりに気を取られて、人間の友人にまったくと言っていいほどプレゼントは渡せてなかったが、幸いと言っていいのかどうか、友人は多くなかった。遅れたからって文句を言う連中でもない。ちょうどいい時間に起きれられたことに内心喜び、悠理はベッドから這い出した。そこからは意外と早く用事が終わった。京平たちにチョコレートの詰め合わせを持っていったり、全然会えていなかった知り合いに電話を入れたり、途中で鳥に会ったり。帰宅途中の正臣と帝人、そこに居合わせた杏里にソフトクリームを奢ったり。岸谷先生は後でもまったく問題なさそうなので後回しにした。

静雄には特にお世話になっている、もとい迷惑をかけている回数がダントツに多いので、行きつけのケーキ屋のバイキングのペアチケットを選んで買った(本当は自分用に1枚買おうかとも思ったが財布の都合で断念)。購入したあとにあそこは3人組だったじゃないかとふと思い出して慌てたと言うのは余談。

このあとからが問題だった。



「さて、静雄はどこだろうなあ…」

目立つ姿をしているのできっとすぐに見つかるだろうが、日が暮れてきたのであまりゆっくりもしていられない。人が増えると歩きづらいし、だからと言って街中で全力で走り回るのは気が引ける。急ごう、と一人で気合を入れていると、すぐ後ろに人の気配がした。振り返るよりも先に両肩に手を当てられる。


「誰を探してるって?」
「…何の用だよ」
「ご挨拶だなあ、」

右肩に置かれた手をやんわりと引き剥がして振り返る。臨也は珍しく悪意を含めない顔で笑った。

「いやあ、悠理が時期遅れのバレンタインを贈り回ってるって聞いてさ」
「…思ったよりどうでもいい理由でホッとしたよ。そもそも時期遅れってほど遅れてないだろ!」
「遅れてる事実は変わらないさ。わざわざ新宿まで来るのは面倒だろうと思ったから、用事ついでに取りにきてあげたのさ。電車賃が浮いて助かっただろ?」
「そりゃあどうも。有難いですけど、生憎臨也の分は用意してないんだよね」
「は?」

ぽかん、という表現がよく似合いそうな顔で臨也が腑抜けた声を出す。まだ遭遇して数十秒なのに、珍しい表情を2つも見てしまって困る。

「なにそれ、シズちゃんにはちゃんと用意したのに俺には無いの?」
「静雄には迷惑かけっぱなしだから…ていうか、臨也なら別にわざわざ私に催促しなくたってどこからだって貰えるんじゃないの? もしかして毒入りばっかりで食べられないとか?」
「…あー、本当君にはいつもこう裏切られるねえ。思い通りに行かないね君は。せっかく素直なのに。喧嘩売ってる?」
「売ってないよ」

額に手をやり、妙なオーバーアクションを取りながら臨也は皮肉と嫌味を口から吐き出しつつ、じゃあ、と続けた。

「今日俺悠理の家行くよ」
「はあ!? なんでだよ!?」
「俺に用意してなかったから嫌がらせ。ああ、ちなみに今から用意しても無効だからね。事前じゃなくちゃあ」
「ええええぇ…」
「今からシズちゃんのところ行くんでしょ? とりあえずついてくね」
「ダメ! 絶対穏やかに済まないだろ! ていうか用事は!?」
「は、愚問だね。今日はね、君がシズちゃんに贈り物するのを妨害するために来たんだ」
「お前本当にいい趣味してるよ」

静雄と臨也が会ったらどうなるのかはわかりきっている。でもこのチケットは期間限定ものなので、なるべく今日中に渡したい。なら取るべき行動はただひとつ。

逃げる。

そう決めたならもうやるしかない。後ろでニヤニヤとしているであろう臨也を振り切るべく、なるべく予備動作をせずに悠理は地面を蹴った。

「ちょっと、悠理」
「臨也の思い通りにはならないよーだっ、」

言うが早いか、悠理は縁石の上を走って行く。細い縁石の上を全力疾走するという姿は普通の人間の目には珍しいらしく、あちこちで指を指されていた。やがて悠理が雑踏に消えそうになった頃、ふうと溜息をついて、臨也も縁石に足を乗せた。

「人が増えてきたなあ… 逆に目立つって気づいてないのかねえ、本当馬鹿だ」

小馬鹿にしたように笑って、臨也もその縁石の上を駆け出した。



♂♀



「はあ、っは、ここまで来れたら…まあ平気だろ…」

随分走った気がする。帰宅する学生でごった返しはじめた街の中で、悠理は足を止めた。途中で何度か派手な動きをしてしまって目立った気もするが、臨也を撒ければそれでいい。逃げるのに精一杯で全然静雄を探せていないことに気づいて、少しげんなりした。

「何が平気だって?」
「うわあああっ!?」

真後ろから声がした。しかも一番聞きたくないやつ。一瞬だけ振り返って、顔を確認するや否やガードレールを飛び越えては車道へと飛び出す。車が来て焦ったようにクラクションを鳴らすが、悠理はガードレールを飛び越えた勢いのまま地面でころりと転がった。間一髪なところで車には接触せず、ヨロヨロとした車だけが残ったが気にせず悠理は走る。それを見て呆れたように首を竦めながらガードレールの外に出た臨也は、非常に疲れた顔をした車の運転手に軽く手をあげ、前方の悠理だけを見て、同じように車道に飛び出した。

車を抜け、中央分離帯を抜け、反対車線のガードレールをやはり飛び越えた。先のクラクションの一件を何事かと見ようとしていた人間たちの前に着地して、スピードを緩めることなくひた走る。

「ほんと、無茶するねえ、君も…!」
「うるさいなあ!」

すぐ隣に臨也が迫っていたのは知っていた。だからもう驚かない。この通りが自分たちのせいでちょっとした騒ぎになってることも感づいていた。自然と人が避け、歩道の中にさらに道が出来る。ああもう顔割れたかもしれない街歩けないかもしれない、この折原臨也と追いかけっこもどきしてたなんてもうだめだ注目度満点すぎる! なんて心配をしつつ、悠理はどうにか臨也を撒く方法を模索した。この付近にはあまり障害物がない。だからそれを利用してインターバルを稼ぐことはどうにも無理なような気がした。

(…あ、ここの道を曲がってけば露西亜寿司だ!?)

脳内で地図を展開していって、露西亜寿司の存在を思い出す。うまくいけばサイモンが止めてくれるかもしれない! そう判断して、悠理は急に脇道に逸れた。

「っ、」

急な悠理の行動に臨也も驚いたのか、一瞬反応が遅れる。その一瞬で十分だった。脇道に入った途端に物と塀が多くなり、悠理にとっては逃げやすい状況この上なくなった。塀をよじ登り、柵の上を走り、なるべく物が多いところを選んで走って、飛んで、飛び上がって着地して、また道を曲がる。露西亜寿司はすぐそこだ。

「ちょっと悠理、!」

どこか苛付いたような臨也の声が耳に入る。少し距離があるように聞こえたから(とは言ってもきっと数メートル)、このまま行けば逃げ切れるだろう。路地の向こう、夕陽が当たって明るい表通りが見えて、その先にサイモンがいるのが見えた。あともう少し。

「スシー、スシハイイヨー。キョウノオススメ、イクラト…、ヘイ、スシデモ」
「サイモンごめんっ、あとよろしく!」
「クッテ…?」

見知った女が物凄い勢いで走ってきたと思ったら何か言って去って言った。あとをよろしく、と後ろを指していた気がするのでその方向を振り返り、サイモンは何か察したように頷いて右手を男の前に突き出す。と同時に男が急停止した。

「っと、危ないじゃないかサイモン。何の用だい?」

珍しく苛付いたような顔だったが、一瞬でいつもの貼り付けた笑顔になる。

『悠理にあとを頼むって言われたんでな。お前が何を企んでるのかは知らないが、女を必死で追い掛け回すってのはなかなかダサいぜ』
『別に俺も追いたくて追ってるわけじゃないさ、悠理が勝手に逃げ回るのが悪いんだ。それに俺は生憎、何やってもダサくはならないタイプの男なんでね』
『…流石に今のは引いたな』
『とりあえずそこ、どいてくれないかなあ』
『それは聞けねえなあ。女との約束は守ったほうがいいぜ、臨也』
『しっかりと心に刻んでおくよ』



♂♀



「はーよかったあ、サイモンにあとでお礼しなきゃなあ、はあよかった本当に…」

サイモンの前をダッシュで通り抜け、そのあともひたすら走り、人ごみに紛れ込んだところで速度を落として雑踏の中で静雄を見つけた。チケットもちゃんと渡せたし、静雄は何故か自分を一緒にと誘ってくれた。チケットを買った時点では財布の都合で諦めたが、静雄の好意で行けるのだと思うと素直に嬉しいし有難い。静雄と会話している間も臨也が回りにいないか気が気じゃなかったが、無事に済んだ今となってはもうどうでもいい。気分も良くなり、独り言を言いながら帰路についているわけなのだが、自分のアパート前で黒い人影を見つけてテンションが下がるのを感じた。

「思ったより遅かったじゃないか。待ちくたびれたよ」
「…まあ、こうなると思ってたんだよね」

家の場所が割れてるのはわかってたし。

「君があまりに姑息な手段を使って逃げ回るから、シズちゃんと君の接触を妨害するっていう用事が達成出来なかったよ。どうしてくれるのかな」
「知らないよ」

姑息な手段って。まあ狭いところを走り回るのは確かに自分の方が得意だけど。臨也は広いところを動き回る方が好きみたいだし、それも一重にずっと対静雄用に身体を動かしてきた結果なのだろう。鍵を回して中に入る。ふと臨也の右手にコンビニ袋が握られていることに気づいて、疑問に思って声をかける。

「何それ?」
「チョコ」

短くそれだけ答えた臨也を連れて小さなリビングへと入る。勝手に臨也が炬燵の電源を入れ、座椅子に陣取ったがもう突っ込む気も起きなかった。キッチンで適当にコーヒーを淹れ、カップを2つ持ってリビングに戻る。腰を下ろしたが最後、本人が帰ると言わない限り絶対に帰らないのは重々承知だった。座椅子を取られてしまったため、座布団を持ってきて炬燵に入る。

「それにしても、いつ来ても狭い部屋だよね」
「貴方と違って慎ましく過ごしたい一般人ですからね」
「あれだけ走り回って犬と猫と喋り回ってる時点で、十分逸脱してるけどね」
「臨也とか岸谷先生とか、他の人と比べたら十分一般人だと思ってるんだけど」

会話をしながら臨也がコンビニ袋から箱を取り出す。生チョコを模したチョコレート菓子の箱をバリバリと開けて、個装になっている袋をひとつ取り出した。それを悠理に向かって放る。

「ほら」
「え、ありがとう」

放られたそれをキャッチし、開封する。このとき悠理は既に忘れていたのだ、臨也が自宅に来た理由が「嫌がらせ」のためであることを。臨也が自分をじっと見つめているのも気づかず、悠理は中のチョコレートを摘み、口の中に入れ―――、

「……っ!?」

口の中に入れた瞬間、臨也が間を詰めてきて、というよりは顔を近づけて来て、驚いている間に唇が塞がれていた。どうにかそれを引き離そうとするも、腕を掴まれ後頭部を抑えられ、どうにも出来ないことに気づかされる。塞がれた唇から舌が侵入し、中のチョコレートに触れた。やがてチョコレートは悠理の口の中で溶けて消えて、睡液と共に悠理に飲み込まれる。

「はい、ご馳走様。今年はこれだけで勘弁してあげるよ」
「な…っ、あ、てめ、」
「前々から思ってたけど言葉遣いが悪いよ、悠理」
「…う、うるさい!」

離れていった臨也の顔があまりにも悪役のような顔をしていたので、悠理はこれが嫌がらせであったことを悟る。今までもこういった「嫌がらせ」と称したセクハラのようなものはたまにあったしたまにセクハラを遥かに超越したものもあるが、こんなちゃんとしたキスのようなものは滅多にない、というか普通にキスしてしまった今、と考えて、不本意にも顔が赤くなるのが分かった。


「…悪質だな本当、本当悪質だなお前! 最低! 出てけ馬鹿!」
「嫌だなあ、俺に用意してなかったのと、用事を邪魔したの。この2つについての嫌がらせなのにキスだけで済むなんて有難いと思いなよ」
「ああ、う、そうかもしれないけど!」
「理解と自覚はあったんだ? じゃあもっと酷いことに変えてあげようか」
「ふざけんな帰れ!」

冗談だよ、とくすくす笑って見せる臨也を見て、溜息が漏れる。目の前で穏やかそうに笑顔を浮かべる男を前に、悠理は顔を隠すかのように俯いて右手を額に当てた。




勝てない勝負をしていることに本当は気づいている




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