※9巻直後





「怪我したんだって? 大丈夫?」

夜更け、コンビニに水を買いに行った帰りだった。マンションのエントランスに入りかけたとき、そんな声が頭上から降ってくる。

「…なんでこんなところにいるのかなあ、悠理?」
「帰りにたまたま通っただけだよ」

そんなことを言いながら木の上にいた女―――悠理はふらりと座っていた枝から立ち上がって、実に軽やかに跳躍して、コンクリートの上に着地した。

「ううう、ちょっと肌寒い」
「いつからいたのさ」
「そんな怖い顔すんなって。帰り道だったのはホントだよ。臨也が手ぶらで出てくのが見えたから、待ってた」
「神出鬼没っていう意味じゃあ、君も本当に行動が読めなくて困るよ」

マンションのロックを外し、中に入る。当然のようについてきた悠理を邪険にするのもそれはそれで面倒だと思ったのか、臨也も何も言わず、自分の部屋へと向かった。玄関を開けて、後ろについて来た悠理がちゃんと室内に入ったことを確認してから施錠する。

「コーヒー? 紅茶?」
「なんでもいい、すぐ帰るしお構いなく」

リビングに入るなり大きな黒い革のソファに陣取った悠理は臨也の顔も見ずに左手だけをヒラヒラと振った。気にするのも面倒だと、臨也もキッチンに入らずペットボトルの入ったコンビニ袋をテーブルに置き、そのまま別のソファへと腰掛けた。

「そんで何、俺が怪我したんだって?」
「したんじゃないの?」
「いつ? どこで? 何処からの情報情報? そもそも怪我なんてしてないよ」
「何処からの情報かを聞かれたって、ねえ」

ソファの肘掛を支えに頬杖を付き、口元に笑みを浮かべながらじと目で臨也を見る悠理の顔は見るからに楽しそうで、臨也もげんなりしたように溜息をついた。

「ま、敢えて言うなら路上情報かな。隠し事はよくないなー臨也くん」
「本当君の変な情報網は困るなあ。俺が干渉できないネットワークなんて壊滅すればいいのに」
「縁起でもないこと言うなよ」

情報屋の折原臨也ですら干渉できない情報網。それは存在しているようで、存在しているものではない。というのも、それを認識できるのは今のところ悠理だけだからだ。悠理は動物の言葉を理解できる。ただそれだけのことで、時に彼女は、情報屋と名高いこの男を凌駕する。とは言っても扱っている情報は臨也のような人間的なものではなく、もっと日常的なものだ。だからこそ、臨也にとっては脅威なのかもしれない。もっとも、悠理は情報屋なんてきな臭い職業や裏社会とは無縁な人間なのだが。

「んじゃ、質問を変えるよ。ちょっと右手出してくれる?」
「は? …ほら」

左腕でついた頬杖をそのままに、右手を臨也に向かって伸ばす。それに答えるかのように臨也も指定通り、右手を伸ばした。

「…ッ」
「ほーら、まだ押すと痛むんだろ」
「…」
「諭吉が言ってたよー。ニヤニヤ笑ってたと思ったら急に電柱殴ったって」

差し出された右手の、指のちょうど付け根から第一間接の間を軽く握れば、眉間に皺が寄る。

「なんだよ急に。離しなよ気持ち悪いなあ」
「ふーん、岸谷先生のとこにも行かなかったんだ」
「諭吉って誰だよ」
「あの辺に住んでる野良猫」

何事も無いかのように会話をしながら、握っている右手の骨をゴリ、と刺激する。

「何やって来たんだか知らないけどさあ、なんかしら変動のあった気分を路上で押さえきれないくらいの何かがあったんでしょう」

寄っていた眉間の皺が、「手を取られたこと」に気分を悪くしていたように見せかけていた顔色が変わる。明らかに苛付いたような笑顔を浮かべながら、臨也は女の右手を無理矢理振り払う。

「ほんっとう、君のその情報網めんどくさいなあ。俺は迂闊に街も歩けないよ」
「もともと悪目立ちしすぎなんだろ。動物でも顔がわかるくらいに」
「一応聞くよ。どこまで見てたのかな」
「舞流たちと合流したところで、諭吉もどうでもよくなったみたいだけどね。…2人には誤魔化したみたいじゃん?」
「うるさいな。どうだっていいだろ」
「そうだね、どうだっていいよ。お前が何しようが、何を思ってようが」
「じゃあ俺に関わらないで欲しいんだけどなあ」

臨也は立ち上がり、キッチンへと向かう。それは話を終わらせたいがための行動のようにも、単に悠理に付き合うのが面倒でコーヒーを淹れたかっただけの行動にも見えた。


「あのさあ、臨也」

キッチンの奥へと引っ込んだ臨也に聞こえるように、少し音量を上げて息を吐き出す。

「何度も言うようだけど、お前だってただの人間だってこと、忘れんなよな」

「私は一般人だよ。だから心配してんの、お前のことも」

なんか淹れるなら紅茶がいいなー。そう言って悠理は黙り込んだ。

コーヒーメーカーのコポコポという音を聞きながら、リビングから聞こえる女の声に耳を傾ける。吐き出された言葉は特別な色も乗らず、世間話をするような声音で、だからこそ、刺さる。

――俺が、ただの人間だって。

そんなことは自分だって分かりきってる。自分が「人間」という種族であることは分かってる。ただ、今悠理のいう「ただの人間」がそういう意味で自分に向けられているわけじゃないことを、折原臨也がわからないはずがなかった。いくらいろんな考えをしたって、いくら人と違うことをしてきたって、いくら「あの日の新羅」を目指してみたって、自分は紛れも無い、ただの「人間」であると、そして悠理が本当に、彼女の心の赴くままに、馬鹿らしいほどに真っ直ぐ自分を、人間として、自分が無理をしないように心配しているのも、


「…だから、あの女は嫌いなんだ」


力を加えられたことでまたじんじんと痛み出した右手を握り締めながら、コーヒーメーカーが生み出す黒い液体が滴っていくのを眺め――


臨也はあのときと同じ表情を浮かべたまま、目を閉じた。
感情の推移をとめるかのように、呼吸を、遮断して。





君の嘘を食べてあげよう





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