「あーあー、取れないなあ…っ!」

路地裏にひっそりと佇む自動販売機。その足元で、一人の女が呻き散らしていた。
自動販売機の股下へと潜り込んだ100円玉は、彼女の手の届かないところへと転がってしまっているようで、彼女の腕では遠くて届かない。

「…まあ、いいか。100円くらい…うん…」

膝やスカートに付いた砂利を払い落として、残念そうな、それでいて悔しそうな表情で自動販売機を見やる。そのまま通り過ぎようとした、そのときだった。

「取ってやろうか、」
「…ん?」

右方向から飛んできた、落ち着いた声に振り返る。細身で長身の男が、煙草をふかしながら歩を進めているところだった。陽に当たって透ける金髪以上に物珍しいバーテン服が、男のその細身の身体を余計華奢に見せるような印象を受ける。薄青のサングラス越しに、視線が自動販売機の下に向かっていることに気づいた。

「いや、いいですよ。100円だし」
「100円だからって放っていくのはちょっと違うだろ。…っと」

男は身を屈めて、右腕を隙間に突き入れた。

「お兄さん、バーテンさん? バーテンさんってこんな時間からも仕事してるんですねー、なんか意外だよ。休憩中?」
「いや、俺は別にバーテンってわけじゃ…っと、」

数秒の沈黙のあと、取れたと男が小さく呟く。戻ってきた腕の指先には、先ほど落とした100円玉。

「わあ、ありがとうございます! 凄いなー腕の長さの違いかー…」
「…休憩中なのは確かだが、俺はバーテンダーじゃねえよ」
「ふーん… 休憩中ならちょうどいいや、それお礼」
「は?」
「取ってくれたお礼ですよ。この自販機に用事があったんでしょ? ちょっと足んないけど、そういうことで」
「お、おい! 待てよ!」

身を翻せば慌てたように呼び止める声。無視する理由もなかったので、顔だけ振り返った。

「お前、俺のこと知らないのか?」
「…は?」

突然投げられた疑問に、素直に首が傾ぐ。男に見覚えが無いのは確かだが、自分が知らないだけで物凄い有名人なのかもしれない。どちらにせよ、自分が男のことを知らないのは事実だった。問いを肯定しようと口を開いた瞬間、とんでもないものが悠理の視界に飛び込んできた。
自分と男、そしてその一直線上、右方向から、自分たちめがけて飛んでくる、ナイフ。


「危ない!!」
「…っ!?」


捻っていた身体を前方に向けて、男に向かって全力で走る。突き飛ばすようにした男の体と自分の背後、まさに間一髪、ナイフが突き刺さった。そのナイフを視界に認めて、悠理は素早く周囲に視線を走らせた。こんな明らかな凶器を投げつけられるような恨みは買った覚えがない。だとすれば、可能性はひとつ。目の前のこの金髪男が誰かから命を狙われている可能性だった。男の体をすり抜けるようにして背後にまわり、背中合わせに立つ。ナイフが飛んできた方向を見れば、そこには黒いコートの男が立っていた。

「…折原、臨也」

この名前を、いやあの顔を再び見る日がくるとは思わなかったと、心底思う。先日南池袋公園で会ったときとは違う、にやにやとした笑い顔。その顔には確かに、あの日と同じ敵意が滲んでいた。


「やあ、奇遇だね」
「…奇遇? 私に何か用?」
「はは、自意識過剰だなあ。君に用事はないんだ。本当に奇遇。驚いた」
「どういう、」

どういうことだ、そう問いかけた言葉が、すぐ隣を通過した大きな質量によってかき消された。悠理の真横を飛んでいった自動販売機は、真っ直ぐに折原臨也へと突っ込んでいく。折原臨也がそれを数歩移動して避け、機械は壁にぶつかって大破した。

「なっ…、え…?」
「何のようだあああああ、臨也あああああああ…!?」

事態が飲み込めない。困惑する自分の背後から、圧倒的な熱量が空気を移動して伝わってくる。振り返れば、金髪男がまるで先とは別人のような鬼の形相で、折原臨也を凝視していた。

「あー…俺には化物と得体の知れない女を同時に相手するスキルなんて無いんだよね。残念だけど今日は帰るよ」
「今日は、じゃねえ! お前に明日なんて来ないってことをそろそろわからせてやる!」
「本当、シズちゃんってばそれ何回言ったら気が済むの?」

爆走する金髪男と、それをひょいと回避する折原臨也。黒いコートを靡かせながら鉄柵を蹴り、ふわりと飛び上がって悠理の目の前に着地する。すれ違いざまに唇が近づいて、身構える。

「今度は君のところにも行くから。色々聞かせてよ? 風真悠理さん」
「…な、」

そのまま折原臨也は軽く、驚異的な速さで遠のいていく。金髪男もさすがに追いつけないと諦めたのか、嘘のように穏やかになった。はあ、と溜息をつくのが聞こえる。

「あ、あの…悪かったな、急に暴れたりして」
「いや…なんか、こちらこそ」
「…お前、俺のこと怖くないのか?」
「は?」
「ていうか俺のこと、知らないの?」
「ああ、それか。なんか申し訳ないんだけど、多分…知り合いではないと思う」
「いや、知り合いとかじゃなくて…まあいいんだけど」

会話が途切れて、お互いに顔を見つめあう。

「…お前、臨也と知り合いなのか?」
「知り合いというか…なんか、多分、目付けられた、と思う」

自分の名前を知っていた。それだけで、目を付けられたと称するのはやや浅慮かもしれない。しかし、自分の名を知る人間が少ないはずのこの池袋で既に名を知られているという事実が、その可能性がけして低くないことを示していた。

「大丈夫なのか?」
「大丈夫だとは思うけど…お兄さんも知り合い?」
「知り合いっていうか…ああ、アイツの顔なんて思い出したくもねえ」

一瞬にしてこめかみに青筋が浮かんだ男を見て、きっと折原臨也の話題は彼にとって面白くないのだろうと推測する。怒りを押し込めたのか、男は少し困ったように眉を八の字にしてポケットに手を突っ込んだ。

「とりあえずなんだ、もう俺休憩終わりだから。…お前、名前は?」
「…えっ?」
「ああ、いや、深い意味じゃねーんだ。あの野郎と関わりがあるってんなら、もしかしたらこれから先も会うかもしれねーし」
「あー、そういうことか。私は風真悠理。悠理でいいよ」
「俺は平和島静雄だ」
「ああ、平和島しず…えっ!?」

思わず頭のてっぺんから足先まで眺め回してしまう。平和島静雄。池袋でもっとも敵に回してはいけない人間だと猫たちにも恐れられた、怪物。どうして自販機を投げた時点でそれだと気づかなかったのかと、自分でも驚く。だって、こんな。

「思ってたのと全然違うじゃん!」
「…!?」
「平和島静雄さんて…もっと筋骨隆々な…こう、ムキムキな感じの人だと…思ってたんだ」
「…まあ、普通の奴は人間が自販機投げるとかいう発想すらねえから」

何かあったら呼べよ。そう残して去っていった静雄の後姿を見送って、携帯に新しく登録された番号を見た。彼とは仲良く、やれるかもしれない。




ナイフの軌跡で絡まる糸





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