BENNU | ナノ


▼ 015 『大事な何か』なんてものは

 もたれてるな――
 腹の底で、淀んだものがぐるぐると回っていた。ラルガラ雪山の地下道の案内を頼んだ煤を合わせたら、ここ数日の間に三回も煤を喰ったことになる。
 身体はだるく、背筋に寒気を感じていた。しかし腹の底だけは、熾がくすぶるように熱っぽい。
 竜族にとって『眼』とは、体中に満たされる魔力(マナ)の結晶体であり、万物を操るための要となる器官である。その器官が一つ失われている隻眼のブロウは、煤の消化のために必要な魔力の生成が追いつかないのだ。たった三回の喰禍で、消化できる絶対量を超えてしまった。時間がたてば飲み込んだ煤は徐々に消化されるだろうが、それまではもたれる腹をさすりながら耐えるしかない。
 煤の除去に耐えた女たちが伏せっている間に、ブロウは宿屋の主人に清潔な布と湯を都合してもらった。
 それを部屋まで運び、湯に布を浸してかたく絞ってから手渡す。緩慢な動きでそれを受け取った二人は、血と泥で汚れていた顔を拭った。黒ずんだ汚れの下から、日焼けで少し赤らんだ肌が顔を出す。髪を拭う際にのぞく細い首筋は若く瑞々しい美しさが香り、傷の痛みに顰められる眉すら艶っぽく見せる。
 その魅惑的な光景から目を逸らし、ブロウは背を向けた。今すぐにでも部屋を立ち去るべきだが、まだ聞かねばならぬことがある。
「フランベルグの王女が単身敵国にいる理由は、だいたい想像がつく」
 女たちが手を止める気配があった。
「俺はグローネンダール領第四地区から、ラルガラ雪山を越えてここまで来た。その途中、お前が同盟国にいる理由らしき者どもにも会った」
「ラルガラ雪山……そうか。ならば、法王の言っていた『鍵』となる古の者というのはブロウ殿のことか。それならば、魔力(マナ)を扱うことができるのも頷ける」
「なんだ。ラルガラの連中だけじゃなく、お前もそんな馬鹿馬鹿しいことを聞いていたのか」
「直接聞いたわけではないが、彼らとは連絡を密に取り合っているから」
――それもその組織の中で、お前らが『光』と仰ぐ本来の頭目が預かり知らない、汚れた仕事を扱う者のアジトとみた。
 グローネンダールに言ったブロウの予想は、結局彼からたいした反応は得られなかった。
 この真っ直ぐな気質の女が、旅人を問答無用で襲うようなことを簡単に容認するとは思えない。だがこちらに向いている彼女の瞳は、深い海のように青く慈愛に満ちているが、時折ひやりとした硬質な光を湛えていることがある。その底の色は、容易にのぞき見ることを許さない威厳があった。
――俺たちは『影』――強い光が伴う痛みだ。
――光の憂いは、光がそれと気付く前に取り除かなければならない。
 だがどちらにしろ、やはりグローネンダールの率いる一部の者たちは組織のために、表立ってできないような仕事をしているのだろう。長年敵対してきたヘレ同盟国とフランベルグ王国の統一。それを快く思わない者は、掃いて捨てるほどいるはずだ。
「それよりも、お前に一つ聞きたい」
 組織云々については、追求しない。彼らがこれからどうなろうと、全く興味はない。
 しかし、これだけは聞いておかなくてはならない。
「ロイはお前たちにとって象徴となり得る存在だ。身分を明かし、組織に誘うのか」
 かつて人間と亜人が共存していた町、ロズベリーの代表の息子。町の再興にまだ年若いロイが尽力していると聞けば、それに心を揺さぶられ、同調する者が少なからずいるだろう。人族共存の希望を見出す者もいるだろう。ロイは、人心を集めるための一つの布石となれる――
 ふうむ、とゴディバが考えを巡らせるように唸る。
「その問いに答える前に、私からも一つお聞きしたいのだが、いいかな?」
「なんだ」
「どうぞ、こちらを向いてくれ。私は、話をするときは人の目を見て話したい」
 振り向くと、先ほどよりも幾分きれいな身なりになったゴディバが、真っ直ぐにブロウを見ていた。
「ロズベリー出身のロイ殿と法王のご友人が、どうして行動を共にしているのだろう? グローネンダール領の第四地区から来たと言っていたが」
「ああ……」
 ロイと共にいる経緯をかいつまんで話すと、聞き終えるころにはゴディバの顔にみるみる笑みが広がった。訝しく思い眉間に皺を寄せてみせるが、ゴディバはただ柔らかくその笑みを深くするばかりだ。
 そうして言ったゴディバの言葉に、ブロウはいよいよ顔をしかめた。
「ブロウ殿は、やはりお優しい方だ」
「はあ?」
「だが、同時に――失礼を承知で申し上げるが、ひどく鈍感だ」
 つかの間、しんと部屋が静まりかえった。窓の僅かな隙間から吹き込んだ風が、音もなくカーテンを揺らしている。遠くに聞こえていた鳥のさえずりすら止まり、全ての音が二人の間を飛び交うことを憚っているようだ。
「さて、ロイ殿を組織に誘うのかという問いだが……」
 気まずいことなど何もなかったかのように、ゴディバが再び話し始める。
「もうブロウ殿の中で答えは出ているのに、お気づきではないようだ」
「お前は、いったい何を言っている?」
「わからないだろうか。私にその問いを投げた時点で、ブロウ殿は私に「正体を明かすな」と釘を刺したも同然だ」
 ブロウを真っ直ぐ見つめながら、ゴディバが言う。
 不意を付かれたように、ブロウは一瞬言葉を見失った。
「違う。そうは、言っていない」
「言っているよ。どちらでもよいなら、ブロウ殿は私にそんなことを問う必要はないのだから」
「馬鹿馬鹿しい。どっちでもいいんだよ、俺は」
「嘘はよくない。ロイ殿が悲しむ」
「何を。小娘が知ったように」
 苛つきながら答えるが、そんな険悪な空気は柳に風と受け流される。ゴディバはあくまでも笑みを崩さない。
「ならば、わかるように説明していただけないか。どちらでもいいなら、なぜわざわざ私にあのようなことを聞いたのだ。どちらでもいいのだろう? ではロイ殿を組織に誘い、彼が頷けば連れて行ってもかまわないのだな?」
「それは――」
 ふと、続く言葉が見当たらなかった。
 まさしく、ゴディバの言う通りだった。どちらでもいいならば、相手の好きなようにロイと話させればいい。ただ傍観しているだけで十分なはずだのだ。
 ウガン砦を去る時も、ラルガラ雪山のアジトでも、ロイを置いて行くつもりだった。それなのに今更くだらない問いかけをし、くだらない箝口令を敷こうとしている。
 何のために。
――失わないために? 馬鹿な。俺がそんなことをするはずがない。
 大事な何かを手放すのは得意なはずだ。
 ……『大事な何か』だと?
 その悟りは、ブロウに息が詰まるほどの衝撃を与えた。今まさに、初めて自らロイを大事だと結論づけた。それは即ち、『どちらでもよくない』ということだ。
 掌がじっとりと汗ばんでいた。指を開いては、また閉じる。それを何度か繰り返す。ラルガラ雪山の地下道で感じた三歩の距離の違和感と、気付いた矛盾。そんなものには、いつまでも目を瞑っているべきだった。『大事な何か』なんてものは、真っ先にこの指の隙間をすり抜けなければならないものなのだから。
「……ブロウ殿は、迷っておられるようだ」
 凛と、ゴディバの声が沈黙を刺す。
 唇を舐めた。無性に煙草が吸いたくなった。いつものようにヤニ臭い煙を胸に満たしたい。全ての矛盾と違和感を灰色に染め、輪郭を曖昧にし、煙に乗せて吐き出してしまいたい。そのあと胸に残るぽっかりとした無の感覚に浸っていたかった。
――あなたが何と言おうと、俺はついて行きますから。
 二度も言わせたロイの頑なな決意。それはブロウの冷たく凍った心の琴線に、確かに触れていたのだ。
 足下に何かがすり寄る気配があった。プルガシオンだ。俯くブロウを慰めるように、優しく頬ずりしてくる。
 自分に嘘はだめだよ。
 微かな言葉が、ブロウの心に寄り添った。優しい響きとは裏腹に、ブロウを袋小路へと追い詰める。害虫でも追い払うかのように荒っぽくあしらうと、プルガシオンが悲しげな声で鳴いた。
 いつまでそうやって自分を責めるの。いつまでそうやって自分を蔑むの。大事なものは大事にしていいの。向き合って。目を逸らさないで。――逃げないで。
「やめろ。……燃やされたいか」
 ブロウの手の辺りに炎の気配を感じとったプルガシオンが、渋々と離れた。何度か振り返りながらゴディバの元に戻ると、ふてくされたように足下で丸くなる。ブロウのへそまがり。長い尾で一度床を叩くと、そんな呟きを最後にプルガシオンは黙り込んでしまった。
「ブロウ殿がそのように振る舞う理由は、おそらく私の理解の及ばぬところにあるのだろう」
 背筋を真っ直ぐに伸ばし、静かな佇まいでゴディバが話し始めた。
「正直なところ、私は是非ともロイ殿と腹を割って話がしたい。彼に会ったのは、私が兄上のロズベリー視察に同行した時のことだ。私がまだ十の頃で、ロイ殿が五つか六つの頃だったと思う。とても聡い子だった。成長した今、彼はより洗練された雰囲気を持っていた。ロイ殿ならば、我らの志に耳を傾けてくれると思う。……しかしブロウ殿の了解を得ずに、私から正体を明かすようなことはしない」
「……勝手にすればいい。俺はどちらでもかまわんと言っているだろう」
 口の中で言葉がもたつく。いい加減嫌気がして、ブロウは部屋を出ていこうとした。
「待って」
 振り返ると、唇を一文字に結んだナディアと目が合った。この時になって、ようやく彼女の口元に特徴的なほくろがある事に気がつく。小さなものだが、夜空に輝く一等星のように視線を引き付ける、印象的なものだった。
「姫様の言う通り、あなたに迷いがあるのならば――覚悟しておいた方がいい。ロイは、必ず私たちに気がつくわ」
「……なぜそこまで言い切る事ができる」
 一呼吸飲み込んでから、ナディアが答えた。
「私は……私の名は、ナディア・オーウェル。私の父セネカ・オーウェルは、ロズベリーの庁舎で働く議員の一人だった。父は人間側の議員のまとめ役のような立場にあり、ロズベリー代表であるイベール・ハイフェッツとは良き仕事仲間だった。同時に無二の親友でもあったわ。私の家とロイの家は、家族ぐるみの付き合いがあった」
 ブロウが渡した布を、堅く握りしめている。幾重にも重なったしわが、拳の中で窮屈そうにしている。
「私は代表の息子であるロイとは幼馴染にあたるの。幼い頃、ロイと彼の兄のオリヴとはよく遊んだわ。最後に会ったのは十一年前のことだけれど……ロイは、私に気が付いてくれると思う」
 ロイの、幼馴染?
 そう自称する人間の女を、ブロウは改めて観察した。
 背はすらりと高く、勝ち気な光を湛える瞳は切れ長で知性が感じられる。肩まで伸びた癖のある紫黒の髪と口元のほくろは、彼女の色香を醸し出すのに一役買っている。また細身の服は、よく鍛えられ引き締まった身体の線を浮かび上がらせ、豊満な胸を強調していた。
 年の頃は二十代半ばというところだろう。十七歳のロイとは、幾分年の離れた幼馴染ということになる。ということは、ロイは彼女にとって弟のような存在だったのかもしれない。また彼女はロイにとって姉のような存在だったのかもしれない。
 全てはまだ推測で、『かもしれない』の領域を出ないものだ。だが、それは限りなく真実との境界線のそばにいる。
 少しの間、視線を交わし合う。それは数秒のものだったが、ブロウにある種の痛みを植え付けた。何の痛みかなど、考えたくもなかった。たまらずにナディアから視線を逸らす。彼女に返す言葉は、終ぞ口にしなかった。代わりに溜息にも似た長い息が、鼻からゆっくりと漏れた。
 踵を返し、部屋から出ようとしたときだ。すっかり沈黙に支配されていた部屋に、高らかなノックの音が響いた。
「ブロウ、戻りました」
 ざわりと、胸が波立つ。強い動揺だった。それは聞き慣れた声であるはずなのに。
 震える指を隠すように、強くドアノブを握る。開くと、紙袋を抱えたロイが立っていた。
「言われたものを買ってきました。それで、怪我人の具合は……?」
 ブロウの後ろをのぞき込もうとするロイの腕から、紙袋を奪い取る。驚くロイの肩を押して扉のそばから追いやってから、ブロウは紙袋をナディアの方へと放った。咄嗟のことに受け取り損ねたナディアの足下に、包帯やら消毒液やらが散らばった。
「夜には出て行け。それまでは好きにすればいい」
 それだけ言い捨てると、ばたんと乱暴に扉を閉めた。静まりかえった廊下に扉の悲鳴が木霊する。
 ブロウの苛立ちの理由を知らないロイが、ただただ目を丸くしてそれを見ていた。
 

 眩しいほどの陽光が差す中を、二人は無言で歩いた。ブロウの少し後ろを、ロイが付いてくる。足が向くままに踏み入れた裏通りの道は除雪されておらず、歩を進めるたびにサクサクと小気味よい音がするが、それは二人の間に流れる沈黙をより顕著なものにさせていた。
 あの二人は誰なのだとすぐ問われるかと思っていたが、意外にもロイは口を閉ざしていた。様子を窺うように振り向くと、ぼんやりと地面を眺めたまま、心ここにあらずというように歩いていた。時折首を捻っては、ため息をつくことを繰り返している。
 部屋の扉を開けた時、ブロウに遮られる寸前に二人の女の姿が見えたのだろう。その面影が、ロイの記憶の扉をノックしている。しかし扉は開かず、ロイは必死で鍵を探している。
 しばらくしてから諦めたように頭を振ると、ロイはようやく口を開いた。
「なんだか、懐かしいような気がするんです」
 掌をぼうっと見つめながら、ロイは言う。まるで記憶の鍵が自分の手にないのが、不思議でならないというように。
「あの人たち……ちらっと見ただけだから、顔もよく分からなかった。でもどうしてか、雰囲気に懐かしさを感じたんです。……名前とか、聞いていませんか?」
「……いや。聞いてない」
 自分でも驚くほどに、さらりと嘘が飛び出した。喉に手を当てる。ラルガラ雪山で感じた澱が、また貼り付いている。今度は温かな印象は微塵もない。冷たい、薄汚い澱だ。
 そうですかと、ロイが残念そうに返事をした。それから一度来た道を振り返ってから、曖昧な感情を断ち切る様に真っ直ぐに前を向くと、ブロウの隣に並んだ。
「……? どうしたんです。顔色が悪い」
 気遣う様な視線を向けられる。訝しげなロイを視界に入れぬよう、歩を速めた。
 気分が悪い。でもそれは、煤を喰ったからだ。
 澱のせいなどでは、断じてない。
「……ブロウ?」
 気遣われるのが面倒なだけだ。
 喰禍のせいなのだ。
 くだらない。
――そう。くだらない、言い訳だ。

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