BENNU | ナノ


▼ 011 地上へ

 男が目を覚ましたのは、日も上がりきらぬ早朝の事だった。
「――――」
 辺りはまだ仄暗く、キャラバンの隊員達が各々毛布に包まり眠っている。その静かな寝息の合間から、確かに名を呼ばれたのだ。声はない。だが、頭の中に直接響く『言葉』があった。
「――――」
 再度名を呼ばれ、男は温かな毛布から抜け出した。周りの者を起こさぬよう、忍び足で天幕を後にする。
 外に出ていくらもしないうちに、未だ夜の冷気を含んだままの風が、身体の熱を奪い去る。毛布をそのまま体に巻き付けてくれば良かったのだが、そんな事は思い浮かばないほど、彼は興奮していた。
 待ち続けた知らせが、ついに来たのだ。
「ここだ。私はここにいるぞ」
 まだ少しだけ夜が滲む南の空に向かい、男は呟いた。起き抜けで乾いた喉と高まる想いが、言葉の最後を掠れさせる。
 早く。一刻も早く、お前の知らせが聞きたいのだ。それが吉報である事を、私はただ願うばかりだった――
 焦れるような一時の後。鈍く明けゆく南の彼方に、すっと一筋、朝焼けを一身に浴びた黄金の雲がかかった時だ。
 その目を奪われるほど美しいコントラストの間に、男は待ち続けたものを見た。
 一見するとただの星のような白いしみが、朝焼けの天を穿つ。それは瞬きをする度に大きく、近くなってゆく。放たれた矢の如く空を一閃し、男のもとへと飛んでくる。
 それは、一羽の白いツバメであった。
 純白の羽毛に朱の星を煌めかせ、男のもとへと滑空する。手を差し出すと、迷わずそこへ止まり翼をしまった。
「そなたが現れるのを心待ちにしていた。――プルガシオンよ」
 感極まった男の顔を見上げながら、ツバメが可愛らしく小首を傾げる。黒々とした丸い瞳を見つめながら、男はプルガシオンの声なき『言葉』を聞いていた。
 頭の中に直接語りかけられる不思議な感覚は、何度感じても慣れるものではなかった。それは静謐な湖の水面に一滴の雫を落とす時の様な、厳かで、神聖な瞬間のよう。ともすれば、それは神からの洗礼のようであると感じた事すらあった。
 だがプルガシオンの『言葉』が終わると、男は堪え切れずといった風に笑い出した。それにつられるように、プルガシオンも二股に分かれた長い尾を楽しげに揺らしている。
「そうか、城の窓から飛び降りたか! なかなか大胆な事をなさる。……いや、むしろあの方らしいのかな」
「――若よ。何やら、随分と楽しそうにしておるの」
 後ろからかけられたしわがれ声に、男は振り返った。
「ああ、すまない。起こしてしまったか」
「なに、もう起きておったわ。年寄りの朝は早いんじゃよ」
 目じりに皺を刻み、老爺が笑う。そうして男の手に止まった白いツバメに気が付くと、「よもや」と感嘆の声を漏らし、跪いて頭を垂れた。
「御自らお越し下さるとは。僭越ながら、拙老からも深謝申し上げまする」
 恭しい老爺の態度に、プルガシオンの尾が小刻みに揺れる。それはどこか所在なさげにしているような、居心地の悪さを訴えるような仕草だった。
「主に似て、そうゆう堅苦しい事は好きではないようだ」
 男が笑いながら、空いている手で老爺を助け起こす。
「分かっておる。だが礼の一つくらい言うのが筋じゃろうて」
「堅すぎるのだ。プルガシオンは誰の上にも立ちたがらない。そして主と決めた者以外の下にも立たぬ。ゆえに、我等は対等の立場で彼に接しなければならないのだよ」
「確かに、そうじゃったのう」
 主従揃ってなんと嘆かわしい、少しは身分をわきまえんかい、などと呆れるようにぼやきながら、老爺は膝に付いた土埃を手で払い落した。
 それが済み顔を上げると、深い皺に縁取られた瞳が鋭く細められた。
「して、彼はなんと言っておる?」
 問われ、男は一度目を伏せた。
 急がねばならない。この世のどんな騎獣より勝るプルガシオンの俊足ならば、往復したとて十日もかかるまい。
「姫殿下は、従者を連れ無事王都を脱出したようだ」
「では――若!」
「我々はこれから、進路を東へと変更する。ジェノ周辺は王国騎士の警戒が厳しく、侵入は困難とのこと。指定された合流地点は、ここより東――ベルナーゼ教会だ」
 完全に昇った太陽の金の光が、大地に目覚めを与え始めた。朝靄にけぶっていたラルガラ雪山の稜線が次第に明瞭になり、目下の雪原は輝きを増す。
 主の元へと戻るため、プルガシオンは眩い空へと飛び立った。その姿は瞬く間に白い点となり、光の中へと飲み込まれて見えなくなった。
「皆を起こせ。出発の準備だ!」
 身を翻し、男は天幕へと歩き出した。その後を、老爺が興奮気味に付いて歩く。
 時は、ついに動き出したのだ。
「ようやく来るか。我らが女神よ――」
 一度だけ南の空を振り返り、男は呟いた。


「おい、起きろ」
 泥のように眠っているロイの肩を揺する。なかなか焦点の定まらない目を押し開き、ゆっくりと上体を起こした。
「動けるか?」
「大丈夫です」
 強がる言葉とは裏腹に、声は掠れて疲労の色が滲んでいる。それを隠すかのように咳払いをし、ブロウの差し出した湯気の立っている椀を受け取った。
 椀の中に満たされた粥のようなものを、一気に啜る。砕いたアスクィム(非常食のビスケット)を水で煮て嵩増しをし、少量の肉を加えたものだ。特別美味いものではないが、肉の塩気がロイの空腹感を煽る。一杯では足りないようで、空になるとすぐに器を返された。もう一度火鉢にかけられた小さな鍋から注いでやると、今度はゆっくりと噛みしめるように啜った。
 オリヴらの組織を逃げ出してから、三日ほど経っていた。
 ブロウの命令で煤が捜し当てた道には、一カ所だけだが中継地点があった。そこにあると知らなければ見逃してしまいそうなものだったが、岩壁に人が一人通れるくらいの亀裂があり、その奥には天然の窪みを利用して作られた休憩室が設えられていた。
 壁も天井も歪に波打つ狭い休憩室には、暖をとれるように小さな火鉢と寝具、簡単な炊事道具がいくつか、そしてありがたいことに、痛んでいない水甕と酒樽、保存の効くアスクィムや干し肉などが備蓄されていた。
 オリヴらの組織がきちんと己の領域を整備しているお陰で、ロイの体力はもっている。手入れの行き届いた休憩室は疲労と空腹に奪われた体力を癒し、翌日への鋭気を養う時をくれた。
「今のうちに腹に詰め込んでおけ。ここから先はもう中継地点はない。ベルナーゼ教会まで、今度こそ補給はなしだ」
 鍋の底に残っていた焦げた粥をロイの椀に注ぎながら、ブロウは言った。
「あとどれくらいかかるんですか?」
「さてなぁ。少なくとも、この地下道はあと三日程で抜けるようだ。このペグズ大渓谷は、ラルガラ雪山の中でも南方に位置している。地下道を抜ければおそらく山は越えた事になるだろう。ベルナーゼ教会はラルガラ雪山の裾野の小さな宿場町にあるから、そう遠くないとは思うが……ここから早くて四、五日。長く見積もっても一週間ってところか」
 休憩室の隅に置かれた旅の備品が入っている箱から、水袋を失敬する。水甕に浸して中を満たすと、ロイに投げて渡す。無言で受け取ったロイが、何か言いたげに顔を顰めた。
「あの」
 控えめに話しかけてきたロイに生返事を返し、今度は適当な大きさに毛布を裂いて、備蓄されていた残りの食糧や炊事道具を包んだ。
「あの、ブロウ……うわっ」
「自分の物は自分で持て」
 包み終えた荷物を、またロイに投げる。受け取りそこねて足下に落ちたそれを見ながら、ロイはより一層眉間の皺を深くした。
 顔は険しくとも、そこに浮かぶのは怒りではない。
「また……食べないんですか? アジトから逃げてもう丸三日はたってるはずです。何も食べてないじゃないですか。俺に、譲ってばっかりで――」
 椀を持つ手に力が入っている。項垂れた視線の先には、今ブロウが注いだばかりの焦げた粥があった。
「俺はしばらく食わなくても問題ないと言ったろう」
「そうですけど、」 
「残すなよ。今渡した分と、前に俺が渡した分の残りを足したって、それで一週間凌ぐのはお前にはキツい」
「……分かってます」
 解せないといった顔をしながら、ロイが残りの粥を一気に啜る。
 何故とは問わない。
 疑問も一緒に飲み込んだのだろうか。ロイは食事を終えると、無言で毛布の切れ端で椀を拭い、荷物に押し込んだ。
 暗い地下の道を、ひたすらに歩いた。
 明かりは変わらず、ブロウの炎から生み出された小さな蛍火だ。二人の少し先の宙をふわりと漂い、足下を仄暗く照らしている。
 それだけでも、十分な明かりであった。道の凹凸、天井で蠢く虫の姿。それらの細かな物でさえ、ブロウの瞳は把握する。強い光は、逆に闇を濃く見せるものだ。ロイにもこの程度の明るさが調度良いようで、上手く足元の凹凸を避けて歩いていた。
 地下道に足を踏み入れてから数日たつが、イラの襲撃はなかった。もともとペグズ大渓谷は雪土竜(ゆきもぐら)の縄張りであったため、他の獣が寄りつかない。それは即ち、煤が取り憑く相手がいないという事だ。
 しかしそうと分かっていても、これが嵐の前の静けさのように感じてしまう。杞憂なのだ。そう何度己に言い聞かせても、思い出さずにはいられなかった。
――見、ツ、ケ、タ。
 熊のイラや、怪鳥に襲われた時に聞こえた声。幼い子供が玩具を見つけた時の様な無邪気な笑みの中に、背筋が冷たくなるほどの残忍さを孕んでいた。
 尊大な態度、歪む唇、相手を見下す冷たい瞳。声から想像し得るそれらの印象は、ブロウが知るある一人の男と酷似していた。
――この命ある限り、俺はいつまでもお前を呪うぞ! ブロウ、この……裏切り者め! 
 縫い合わせた左瞼に触れる。失われた目が見た『彼』の修羅の様な形相が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
 似ている。気味が悪いほど、あの男を思い出さずにはいられない声であった。
「……ラファーガ」
 それが意味するところ。想像するだけで、足先から怖気が這いあがる。
 お前、まさか――?
「何か、言いました?」
「……いや。何も」
 思わず口を滑らせた言葉を、ロイに聞き拾われる。振り向きもせずにそのまま歩き続けると、背後からこれ見よがしな溜息がした。
「面倒くさい人ですね。聞かれたくないなら沈黙を通せばいいでしょうに」
「なんだと?」
「聞えませんでした? もう一度言いましょうか。面倒くさい人ですね。聞かれたくないなら――」
「やめろ。俺を怒らせたいのか」
「その言葉、そのまま返しますよ」
 険しい顔のロイと向き合う。怒りの宿る深緑の瞳が、僅かな明りを受けてぎらぎらと底光りしている。
 ロイの言わんとする所は分かる。だが、到底口を開く気にもならない。
 ふんと鼻を鳴らし、再びブロウは歩きだした。気配から察するに、ロイは少し後方をちゃんと付いて来ていると分かる。
 しかし、二人の間の空気は重かった。それは旅に出たあの日から、徐々に重く、息苦しくなっていくように感じる。
 後ろをちらりと盗み見ると、ロイとの距離はたかだか三歩。
 されどその三歩は、今までよりも、ずっと遠い。


 暗く、長く、地下の道は続く。
 曲がりくねったり急な下りになったりする道は、まるで蠕動して二人を吐きだそうとしているようだ。それは『ラルガラ雪山』という巨大な怪物の体内にいるかのような、奇妙な錯覚を起こさせた。
 いくら歩けど代わり映えのしない真っ暗な地下道は、時間の感覚を失わせる。今が夜か昼かすらも分からず、おおよそで何日たったのかを数えていても、それが合っていると確かめる術もない。
 歩くか休むかを決めるのは、主にロイの体力だった。ブロウの歩調に遅れをとるようなら小休止を取り、歩く事が苦痛なようであれば道の端で蹲る様にして眠った。一度意識を手放したロイは、顔や手を虫に這われてもお構いなしに眠り続ける。それを払い除けるブロウの手にすら気が付かないのだ。眠るロイの顔は、見る度にやつれていくような気がした。
 歩いては眠る。それを何度も繰り返した、ある日の事だ。
「……あれは……外の、光?」
 まっすぐに伸びた地下道の先に、白く輝く点が見えてきた。外への期待に心躍らせ、ロイのふらついていた歩みが力を取り戻す。ブロウを追い抜き、少し先を小走りして光へと向かって行った。
 そうして飛び込んだのは、目が眩むほどの光に溢れた、昼の雪原だった。
 中天にさしかかった太陽の力強い光が、白い大地に降り注ぐ。うっすらと積もった雪に照り返し、乱反射し、地面に光の洪水を生みだしている。
 その眩しさに、ブロウ達は少しの間目を細めて慣れるのを待った。暗闇に慣れた目には、この強すぎる光は痛いくらいだ。
「この辺りは、ずいぶん雪が少ないんですね」
 光に慣れると、つま先で雪を掘りながらロイは言った。雪深いウガン砦とは違い、すぐに土の地面が顔を出す。
「この辺りはもうヘルベンダー領だ。同盟国最北端のグローネンダール領に比べれば、幾分暖かいからな。それにラルガラ雪山の背の高い尾根が、北からの雪雲を阻む。この辺りは、同盟国内じゃ比較的雪は少ない所だな」
 しゃがみ込み、地面の雪を鷲掴んでみる。掌には雪と土とが混じり合った、薄汚れた雪塊があった。
 これでは――雪から水を作るのは困難か。
 近くに川があればいいのだが、残念ながら煤から得た情報では、ベルナーゼ教会まで何もない。雨か雪が降る事を願うしかないが、この眩しいほどの晴天では、あまりそれも期待できそうになかった。ロイにはまだまだ、苦しい行程になりそうだ。
 溜息交じりに見上げた空に、黒い靄がかかる。それは静かに舞い降り、地下道の時と同様にブロウの足元でひと塊になった。驚いたロイが飛び退き、マントを鼻先までたくし上げて息を顰めた。
「おう、世話になったな」
 ブロウが労いの言葉をかけると、煤の塊が喜ぶように震える。
「最後に、ベルナーゼ教会の方角を教えてくれるか」
 問えば、煤の塊がざわつき、ただの黒い塊から姿形を持ち始めた。蹲っていた姿勢から、むくりと起きあがる。ロイの息を飲む音が聞こえた。
 煤の塊は、人間の様な姿になっていた。
 それは影が起き上がり、勝手に動き出したかのようであった。目もなく、鼻もなく、ただまっ黒な人の形をしたものが立っている。昼の光に時折手や足がうつろいながらも、しっかりとブロウと向き合っていた。
 黒い人影がすっとその手を上げ、ある方向を指し示す。そして、ブロウにしか聞こえない言葉で、途切れ途切れにこう言った。
――南。ココカラ、人ノ足デ、二日ホド。
「そうか。分かった」
 ブロウが頷くと、また黒い人影が震える。それは、煤の期待の表れなのだ。
「ご苦労だった」
 ブロウが、黒い人影に向かって手を翳す。それが最上の褒美かのように、煤が感嘆の声を上げた。
――早ク、早ク。助ケテ。解放シテ……!
 男、女、老人に子供……幾重にも重なった奇妙な声が、口々にブロウに救いを求めている。次第に煤の震えが大きくなり、人の形を崩して再び黒い靄へと戻る。しかし次の瞬間、それは一気に凝集した。
 靄は、一粒の黒真珠へと姿を変えた。陽光に照らされていても、その輝きを吸い込んで闇へと変えるほどの、常闇の欠片だ。
 ブロウは手のそばに浮いたそれを優しく握ると、口元へと運ぶ。
 俺には、お前たちに次の道を示してやる事はできない。ただ苦しみから解放してやる事しかできない。
 一瞬の躊躇い。しかしそれでも耳に聞こえる煤の声は、それを懇願していた。
 縋る声に頷きを返す。握った煤の黒真珠を口に含み、そして――そのまま、飲み込んだ。

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