BENNU | ナノ


▼ 002 イラ

 アークは今、彼の人生の中で最悪の状況にいた。
 星空に高く屹立する木々が鬱蒼と生い茂った森の中、夜露に湿った地面に倒れている。そしてその上には、獰猛な唸りを上げる狼が覆い被さり、アークの喉笛を噛みちぎろうとしていた。
 しかし正確には、それは狼ではない。以前は狼だったもの、だ。赤黒く焼け焦げた皮膚、湾曲した四肢、長く伸びた牙、濁った瞳と吐き気を催す腐敗臭――『イラ』。無差別に人を襲う化け物だ。
 覆い被さるイラの口からねっとりとした唾液が垂れ、アークの頬を汚す。イラの裂けた口は狼特有の長い吻のせいなのだが、ともすれば獲物を捕えてほくそ笑んでいるようにも見える。押し倒されて仰ぎ見る暗い口蓋の奥からは、濃い死臭がした。それは、抗ってもイラに太刀打ちできない己の死臭の様だ。
 剣はすでに手の届かない足元に転がっている。押し倒された拍子に手放してしまった。素手で滅茶苦茶に抗ったせいで、両腕にはいくつも傷ができ、袖を赤く濡らしている。鉄臭い。止血しなければいずれ意識を失うだろう。その先に待つものは、言うまでもなく――
 いやだ!
 食らい付こうとするイラを押し留める手に力を込める。目前で鋭い牙がガチリと噛み合う。木々の合間をくぐって届く僅かな月明かりを受けて細い光を跳ね返すそれは、まさに鋭利なナイフそのものだ。
 こんはすじゃなかった。こんなはずじゃ……
――頼むから、迷子にだけはなってくれるなよ。
 不安に翳った顔で親友がそう呟いたのは、それほど前ではなかったはずだ。

「なあ、ビビってるだろ」
 からかい交じりの声で、レニ言った。
「お前が暗い所が苦手なのは知ってる。でも、演習はやらなくちゃいけない。俺ら、少年兵っつっても王国騎士団(マルアーク)の一員だからな。「暗いとこ怖いんですぅ」なんて言い訳は通じねぇ」
「馬鹿、似てない声真似するなよ。分かってる。いつか前線に出て亜人と戦わなくちゃいけないんだろ、怖いなんて言ってられないもんな」
 火にかけた巨大な鍋の中身をへらでかき回しながら、アークは言った。「そっくりじゃねぇか」と、レニはけたけた笑う。いくらか釣りあがった人懐こい目が、夕焼けのオレンジを映しこんで悪戯っぽく煌いた。
 野営地の中央に拵えた竈にかけられた鍋からは、口の中に唾が溜まるいい匂いがする。鍋の周りには、夕食を今か今かと待ちわびる少年兵達が自分の器を持って囲んでいた。
 エパニュール大陸南部に位置する広大な草原地帯を有する国、フランベルグ王国。その首都、王都フラムの城下町でレストランを営む父親を持つアークは、将来父の店を継ぐために幼いころから料理の腕を磨いてきた。そのおかげで、十四歳とは思えないほどの腕前だ。今回の演習では、その腕を買われて料理番を任されている。
 人間主義のフランベルグと、混血種・亜人の国ヘレ同盟国の関係の悪化、そしてイラの発生。これがレストランでの平凡な日々から、アークを引っ張り出した原因だった。
 本来、騎士は職業区分による世襲、或いは厳しい試験が伴う志願制だ。
 今までは騎士の名誉と地位に憧れる数多(あまた)の若者のおかげで、徴兵など必要なかった。しかし今、騎士団は同盟国との何年も続く長い紛争とイラの異常発生のせいで、まだ大人になりきらない少年達の手さえ必要とするほど疲弊している。
 徴兵などなければ、ダイン(平民区分:商業者・農業者・その他一般市民)に属するアークは今頃レストランの厨房に立っていただろう。十四歳から十七歳の者は少年部隊へ、十八歳以上は本部隊へ。十四歳のアークは、ぎりぎり徴兵の年齢にひっかかり、ルフト(騎士区分)へと引き上げられてしまったのだ。
 へらの先でスープを掬い取り、味を見る。塩が足りない。
「レニ、足元の袋に塩が入ってるから、とってくれない?」
「塩だぁ? 分かってない、分かってないよお前」
 大きな溜息をつき、レニは肩を落とした。
「夜目の利く対亜人を想定しての、夜間のナキア森での演習なんだ。やつら、戦いながら森に誘い込むのが上手い。蛮族には、森は庭みたいなもんなんだろうな。夜はお前の大嫌いな真っ暗闇だし、その上森の中。視界は最悪だぞ。俺たち班が違うからな、「レニ様たすけてぇ」なんて泣きごと言ったって助けてやれないぜ」
「だから、似てないって。それに、「レニ様」なんて死んでも言わないぞ」
「どうかな。アーク、でかい図体のわりにびびりだから」
 西の空の端に追いやられる太陽を見上げながら、レニはにやりと笑った。今にも沈もうとする太陽の反対側の空は、すでに夜を引き連れて紺色に染まっている。ふたつの空の境界線は夕日の橙と夜色の紺碧がちぎれては混ざり合い、昼でも夜でもない幻想的な色を織り成していた。ゆっくりと、しかし確実に太陽が山に隠れていく。
 ふうっと息をつき、レニが真剣な顔になる。
「お前、夜の森になんか入ったことないだろう」
 アークが鍋をかきまわしていたへらを取り上げ、詰め寄って睨み上げた。自分の肩程までしかない小さな親友の目は、明らかに「心配だ」と言っている。
「そりゃいくつかの班に分かれるし、ひとりになるなんてないだろうさ。でも、お前の場合話が変わってくるだろ。暗闇にびびって気をとられてる間にも、仲間はどんどん先に進んじまう。置いていかれたらどうすんだ、お前。真っ暗闇で足が竦んじまうくせに」
「そんなヘマしない」
「するかもしれないだろうが。……それに、イラのことある。ナキア森でイラの発生報告はまだないけど、あいつらどこに現れるか知れたもんじゃない。おい、イラがなんだかは分かってんだろうな新米騎士」
「それくらい知ってる。『原因不明の煤。又は黒い霧。それを長時間吸うことにより変異した生物。無差別に暴れ狂う化け物の総称』、だろ?」
「教科書通りのお答えありがとさん」
 眉を顰め、肩をすくめる。
「いいか。ランプが消されても慌てるんじゃないぞ。目が慣れるまではよく見えないけど、そのうち慣れるから。そうしたら」
「わかった。わかったからこれ返してくれない?」
 早口でまくし立てるレニをいなし、アークはへらを奪い返した。塩の袋を拾い上げ、スープの味を整え始める。
「大丈夫だよ、ちゃんと仲間に付いていける。暗闇が怖くないかと言えば……うん、ちょっと怖いよ。でも、ちょっとだからな。みんな同じだろ。真っ暗闇で全く怖くないやつなんていないさ。みんなと一緒ならイラもやり過ごせる。大丈夫。できるよ」
 レニは何か反論しようとして口を開いたが、言葉を飲み込んだ。腰に手を当て、あきれたように頭を振る。
「あーあ、ビビリのくせに強がっちゃって。顔引き攣ってんの、自分じゃ分からないわけ。そのくせ変に頑固で人の話を聞きやしねぇ。ばっかみてぇ。かっこわるぅ」
 レニは自分の器を鍋に突っ込み、スープを掬った。周りで順番待ちをしていた少年兵達から非難の声が上がったが、無視をして歩き出す。
 しかし数歩ほど歩いた所で、不意にくるりと振り返る。竈の火に照らされたレニの表情は、不安に翳っていた。
「頼むから、迷子にはなってくれるなよ」

 全く、お前の言うとおりだ。僕は馬鹿だ。格好悪い。あんなに大丈夫だと言ったのに、実際はどうだ。
 森の中腹に入り、演習の説明と夜の森での動き方について話を聞いているまではよかった。しかしランプを消した途端、暗闇に気をとられて周りが見えなくなったのだ。足が竦んだせいで、ひとり混乱して仲間においていかれた。喉が震えて、気づかない仲間に待ってくれとも言えなかった。
 その結果がこれだ。
 道に迷ったならじっと動かずに捜索隊が来るのを待つべきだったのに、動き回り、挙句の果てに突如現れたイラに襲われた。暗い所は苦手だったとしても、その息苦しさ、迫ってくるような閉塞感に耐えるべきだったのだ。しかし、アークは闇から逃げ出した。風に揺られるたびに誘い込むように手招きをする木々から、夜のしじまを穿つ獣の遠吠えら、背筋を舐める冷たい夜風から。逃げても逃げても纏わりついてくると分かっていながら、動かずにはいられなかった。
 じりじりと、イラの牙が迫ってくる。同時に、イラの纏う黒い霧が濃くなった。それはまさしく、アークの恐れていた闇そのもののようだった。その黒い霧――煤が発する腐敗臭もまた、アークの気力を萎えさせ、体力を奪う。煤を吸わないためのマスクをしているものの、臭気まで遮断してはくれない。
 この睨み合いもそろそろ潮時だ。イラは我慢の限界、アークは抗う腕が限界だった。もう、あまり力が入らない。駄目かもしれない。一瞬、昏い考えが過る。
 その抗う気持が揺らいだ一瞬を、イラは逃さなかった。
 大きく身震いし、アークの手を振りほどく。思わず腕を放してしまい無防備に晒されたアークの首に、イラは狙いを定めた。その刹那、イラが笑ったように見えた。勝ち誇り、獲物を見下す醜悪な瞳とナイフのような牙。もう、アークの目はそれしか捕えることができない。思考が止まり、戦慄する。
 やられる――
「アーク!」
 自分の名前を呼ぶ声とともに、ひゅっと風を切る音がした。続いて、ぐさりという鈍い音。
 迫っていたイラの牙が、目の前で止まる。首からは、何か棒のようなものが突き出ていた。目を凝らす。棒ではない、柄だ。ナイフが刺さっている。
「どけ!」
 聞き覚えのある怒声がし、イラがアークの上から突き飛ばされた。声の主が走ってきた勢いそのままに、体当たりしのだ。アークの目の前に、闇に溶け込みそうな濃紺の髪が舞った。そのままイラと小柄な影が、アークの上を通り過ぎる。そしてすぐに、ばきっという鈍い音。狼の頭蓋が砕けたのだ。
 影が通り越して行ったほうを見る。荒い呼吸を整える小柄な少年の足元に、頭から剣を生やした狼が転がっていた。月明かりを受けて細い光を跳ね返す剣は、さながら狼の墓標のようだ。
 煤がはれていく。動かなくなったイラは徐々に形を崩し、灰となって消えていった。どっと安堵の波に襲われ、力が抜ける。助かったのだ。
 ああ、これでみんなの元に帰れる。
 そう思っただけで、張り詰めていた糸がぷつんと切れ、涙が出そうだった。
 肩で息をしていた少年がくるりと振り返り、煤を吸わないためのマスクをずらす。幼い悪戯っ子のように笑いながら言った親友の言葉に、アークは涙が一気に引っ込んだ。
「なあなあ、俺って格好よくない? 今のさ、物語でよくある、怪物に襲われるお姫様を助ける王子みたいじゃなかったか?」
 その台詞と笑顔の、なんと緊張感のないことか。さっきまでの恐怖感と緊張はどこへやら、アークもつい噴き出してしまった。
「タッパがありすぎて全然可愛くない姫だけどな」
「僕が姫役か? やめろよ気持ち悪い。チビすぎる王子なんかごめんだね」
「うっわ、ほんと可愛くねぇの」
 そう言って豪快に笑いながら、レニはイラだった黒い灰の中から剣を引き抜き、鞘に収めた。投げつけたナイフも拾う。それからアークに歩み寄り、助け起こそうと右手を差し出した。
「アーク、無事でよかった」
「レニのおかげさ。ありがとう」
 差し出されたレニの手を握ろうと手を伸ばしたとき、激しい痛みに襲われた。腕に傷を負っていた事を忘れていた。興奮状態で感じていなかった痛みが、安堵と同時に戻ってきたのだ。
 その痛さに、思わず手を引っ込める。腕を裂く幾つもの傷口からは血が溢れ、隊服の袖を真っ赤に濡らしていた。今まで痛みを感じなかったのかが不思議なくらいだ。
「ひでぇな。イラにやられたのか?」
「ああ、剣を弾き飛ばされちゃって」
「傷を良く見せろ。応急手当の道具は?」
「持ってる。腰の袋の中だ」
「よし。ちょっとじっとしてろよ」
 レニは素早く道具を取り出し、手当てを始めた。
 傷口をよく拭ってから血止めの薬を優しくすりこみ、手早く包帯を巻いてくれる。実に手馴れたものだ。その手際のよさに、アークは感嘆した。それに気づいたレニが、得意げに鼻を鳴らす。
「レニ、すごいや」
「あったりまえだ。俺は騎士団に入団する前に七歳のころから親父の下で見習いやってたんだ。入団一年以下のお前とは違うんだよ。おい、これから先輩って呼べよ。身長でかいからって上から見下ろすのも禁止」
 わざとふざけながら言うレニに、アークは笑いながら首を振った。
「知ってるさ。でもやだよ、同い年だろ」
「ばっか、俺はもう先月で十五歳になったの忘れたのか? お前のいっこ上なんだぜ」
「残念でした。僕も今月末で十五歳になるから」
「なんだよ、つまんねぇの」
 がっかりしたように、レニは唇をとがらせた。
 会話をしているうちに、レニはアークの手当てを終わらせていた。きちんと包帯が巻かれている。激しく動かなければ、ずれる事はないだろう。
「手当てはしたけど、こんなの気休めだ。野営地に戻ったらちゃんと傷口洗うんだぞ。膿んじゃうからな」
 少年部隊一のお調子者のくせに、こういったところはしっかりしている。こと戦闘に関してはそうだ。アークがあっさりと化け物にやられそうになったのに、レニはいとも簡単に倒して見せた。レニには、アークのような料理の才能も大きな体もない。しかし、誰にも負けない剣術の才能があった。同年代の少年はもちろん、大人だってレニには簡単に勝つ事が出来ない。まさしく、天賦の才だ。
「まったくよぉ、何が「大丈夫」だ。しっかりと迷ってんじゃねぇか」
「ごめん」
 照れ隠しと申し訳ない気持ちで、頭をかいた。もともとあちこちにはねる真っ赤な癖毛が、さらにぐしゃぐしゃになる。演習前に強がってレニの言葉を突っぱねたのが、少し恥ずかしかった。
 一呼吸おいて落ち着くと、あっと気づく。
「そうだレニ。みんなは? イラに襲われなかった?」
「ああ、運悪く襲われたのはお前だけだよ。今みんなお前を探してる。あーびびった、ナキア森にイラが出たなんてな……隊長に言っとかないと」
 ということは、みんな無事なんだ。安心してほっと息をつくと同時に、自分の運の悪さに苦笑した。まさか、自分だけがイラに襲われるなんて。
 でも、もう安心だ。みんなが探してくれているし、レニがいる。もうひとりで暗闇の中を彷徨うわけではないのだ。
 ほっとするアークの横で、レニは何かを思い出したのか、ぷっと噴き出した。
「点呼の時いねぇんだもん、お前の班の班長の慌てっぷりったらないぜ! 傑作!」
「悪い事しちゃったな。あとで謝らなくちゃ」
「きっと怒鳴られるぜ。あと、隊長にも。覚悟しとけよ迷子君」
「……親切な忠告ありがとね」
 今度はレニに肩を借り、ゆっくりと立ち上がった。緊張をして痺れていた足を、その場でゆっくりと足踏みをしてほぐす。
「さ、みんなの所に戻ろうか。野営地は森の東だっけ……方位磁針(コンパス)持ってるだろレニ?」
 レニの動きがぴたりと止まる。嫌な予感がした。
「……レニ、持ってるよね?」
「持ってねぇ。俺班長じゃねぇもん」
「嘘だ。ひとりで僕を探しに森に入ったっていうの? 方位磁針、持ってないのに?」
 レニの言葉に青ざめる。何かの間違いであって欲しい。
「いや、最初は班を組んで探してたんだ。でもその途中でなんかの物音がしてさ、まぁ、お前とイラが争う音だったんだけど。それ聞いて思わずひとりで突っ走っちまった。ついてくるかと思ったんだけど、はぐれちまったみたい」
 そんな、馬鹿な。レニの答えに、アークは頭を抱えた。
 確かに、レニがひとりで突っ走ってくれなかったらアークはやられていたかもしれない。しかし、これでは何も状況が変わっていない。迷子がふたりに増えただけだった。
 もう怖いことなんてない、助かるんだと思ったのに、天から地へ突き落とされたようだ。
 放心するアークの肩を、レニが力強く叩く。
「だーいじょうぶだって! 近くにはいるんだ。演習と違ってみんなランプを持ってるし、すぐに見つけてくれるさ。またイラが出たって平気だって! なんたって、この俺がいるんだからな」
 満面の笑みを浮かべて、レニは自信満々に言い切った。緊張感の欠片もない。
 まったく、この親友は頼りがいがあるのかないのか分らない。剣技は誰にも負けないのに、肝心な所でどこか抜けている。
 ああ、そうか。だから班長になれなかったんだな。
 小さなため息をつきながら、アークはそう思った。

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