BENNU | ナノ


▼ 001 暗き道程

 空を見ていた。
 夕陽が茜色の帯を引きながら西に落ち、紫から群青へ、群青から紺碧へ、そして東の彼方に蠢く、暗澹たる黒雲へ――。その千切れては混ざり合う色の優美な様を、ゴディバは静かに眺めていた。
 視線をゆっくりと下げると、城の高くある自室の窓からは、王都の街並みが一望できた。夕空に瞬き始めた星の目覚めを真似るように、ひとつ、またひとつと、家々に明りが灯り始める。
 城という空と地上の合間の場所から見ていると、その光景はまるで、天と地との境目などなく、全てがひと続きの世界のようだった。
 それはこの目に映る世界に境界線などないのだと、訴えかけられているようだった。世界の心が、人々の命の光が、声を一つにして叫んでいるように感じられた。
「そうと思ってしまうのは愚かな考えなのかな……なあ、プルガシオン」
 長い睫毛を伏せながら、頬にすり寄る白いイタチに語りかけた。憂う主を慰めるかのように、肩に乗ったイタチが優しく頬を舐める。
――なぜブランカからの要請がなかったにも関わらず、エイルダーレの兵を動かしたのです。夜襲があるなどという情報を、いったいどこから手に入れたのですか?
――民の間で噂となっておりますぞ。『フランベルグの王女は同盟国に魂を売ったのだ』と!
――いったいどうゆう事なのか、お答えいただけますかな?
 先頃行われた総会での詰問を思い出し、深い溜息をついた。
 軽装な行動だったと『仲間』から言われれば、否定する事が出来ない。今まで秘密裏に積み重ねて来たものを崩し、その片鱗を晒してしまったのだ。しかし、ゴディバにはどうしても、ブランカの民を見捨てる事ができなかった。行動を起こした結果が苦いものだったとしても、見捨ててしまったら二度と自分を許す事が出来なかっただろう。
 しつこく問いただすフランベルグの重鎮たちに、ゴディバは硬く口を閉ざした。己の性分として虚偽を口にすることは不得手であり、厳しい追及を逃れることは難しい。その結果として、こうして自室への軟禁という事態を招いてしまった。
 彼らの言葉が本当にこの国を思っての事ならば、致し方ない事なのかもしれない。しかし――彼らからは総会での地位を確立するための策を練っているような、不穏な何かを感じずにはいられなかった。そして声を大にして自国の姫君を批判していたのは、奇しくも『過激派』と呼ばれる者達ばかりだった。
「国の基盤となる者達の話合いの場で、以前にも増して過激派が発言権を得た、という事か……無理からぬ事か。今や王が過激派の筆頭なのだから……」
 プルガシオンの見事な毛並みを指先で撫でながら、ゴディバはひとりごちる。
 なぜ。己に問うが、その答えはあまりにも簡単で、あまりにも苦いものだった。
「父上……なぜそれほどまで、人間主義に執着なされる……。兄上の死は、なんの為のものだったのですか……」
 十一年前、唯一人間と亜人が共存していた町、ロズベリー。洪水により甚大な被害を被った同盟国側と、からくも最小限の被害に留まった王国側との間で起きた争いの仲裁に、ゴディバの兄、フランベルグの王子が自ら出向いたのだ。
 争いを厭い、何よりも和平を望んでいた優しい兄だった。人間と亜人が共存するロズベリーの町を、心から愛していた。例えそれが、繊細な硝子細工のように脆いものだったとしても――理想としていた、この国の縮図だったのだ。
 しかし彼の思いは憎しみに囚われた亜人の手によって、暗殺という形で壊されてしまった。以降、父であったセヴル八世は病んでしまった。闇よりもさらに暗い憎悪に憑かれ、亜人を徹底的に拒絶することで己を保とうとした。王子の思いすらも、その中に埋めて……。
「兄上……兄上の御志、ゴディバは忘れません」
 窓枠にかけていた手に、力がこもる。伏せていた瞳は、今はまっすぐ前を向き、東の彼方に蠢く黒雲を見据えていた。
 あれは、私の道。これから歩もうとしている道の姿だ。
 踵を返すと、ゴディバは閉ざされている扉へと向かいノックをした。
「何か御用でしょうか?」
 扉の向こうから、監視役の近衛騎士の声がする。
「ナディアはいるか」
 ナディア・オーウェル。ゴディバの側近を務めている女性だ。彼女ならば、軟禁された部屋にも立ち入る事が許されるはず。しかし総会以降、一向に姿を見せる気配もない。いつも甲斐甲斐しく世話を焼きたがる彼女にしては、異な事であった。
 なかなか返事は返って来なかった。沈黙を返す扉に、耳を当てて返事を待つ。どくん、どくんと、次第に緊張してゆく自分の心音が聞こえていた。
「オーウェル殿は……現在、所在不明となっております」
 鼓動が、また大きくなった。
「どうゆう事だ。ナディアは、今王城にいないという事か?」
「誠に申し訳ありませんが……お答えする事が出来ません。現在、捜索中との事です。総会の前までは目撃情報があるのですが。それから……」
「それから?」
 言い淀む騎士に、じれったさを感じる。それが声に表れないように、努めて落ち着きを払い、先を促した。
「関係ない、と思いたいのですが……厩から一頭、軍馬がいなくなっているそうです」
 戸惑う騎士の返事は、ゴディバを興奮させた。
――動いたか!
 自分がこうして疑惑を向けられ拘束されているならば、もっとも近しい存在である彼女にも必ず捜査の手が及ぶ。軍馬の失踪はナディアの仕業に違いない。時宜を読み速やかに王都を離れ、先に行動を始めたということだ。
「そうか。引き続き捜索に当たってくれ」と短い返事を返すと、ゴディバは扉を離れた。
 高揚した足取りで、部屋を横切る。肩に乗っていたプルガシオンが床に飛び降り、ゴディバの後を付いて歩く。
 その頭上に、金の首飾りが降って来た。繊細な細工が施された金の鎖とあしらわれていた碧玉が、床に落ちた衝撃でばらばらなる。それを危うくかわし、真っ黒な丸い瞳に非難の色を浮かべて主を見上げた。
 こんな飾り物など、必要ない。
 町娘が夢見るような豪奢なドレスも、宝石の輝く美しい装飾品も、この世の贅を尽くしたようなこの自室も。
 ロズベリー戦役より、十一年――。ようやく、始まるのだ。私の決意。私の夢。私の志。時は動きだした。例えそれが、自身の意図する時期ではなかったとしても。
 もう引き返すことなど、できはしない。
 着ていたドレスを床に脱ぎ捨てると、ゴディバはベッドの下に隠してあった平たい大きな箱を取り出した。床を滑っていったリリー・ホワイトのドレスの上には、悪びれる様子もないプルガシオンが寝そべり、興味深げにゴディバの行動を見ている。
 箱の中には、動きやすい服と靴、身分を示す金印と路銀、数枚の着替えと薄手の毛布、それらを詰める背嚢。そして、わずかながらの保存食が入っていた。
 手早く着替えを済ませ身支度を整えると、最後の仕上げに剣を佩いた。細身の剣がベルトの金具に止められ、かちゃりと冷たい音を立てる。
「来なさい。プルガシオン」
 呼ぶと、イタチは敷物にしていたドレスからすぐに立ち上がり、ゴディバの足元にすり寄った。抱き上げ、小さな額にキスを落とす。
「プルガシオン……ジェノの法王より賜った、聖なる獣よ。どうか、私の未来に祝福を与えておくれ」
 耳にかけていた髪が一房、はらりと落ちる。鼻先をくすぐられ、プルガシオンがくしゃみをした。その愛らしい仕草に笑みをこぼし、肩に乗せた。
 窓を開け放つと、風がどっと吹き込んできた。灯していたランプの炎が揺らぎ、長く伸びたゴディバの影を歪ませる。
 太陽は、完全にその眼を閉じた。目前に広がるのは、行く先の見えない闇の世界。しかしそこに、浮かび上がるものがある。空の星と、地上の家々に灯る明り――美しい、命の光の大海だ。
 背を押してくれとは言わない。
 ただ……どうか私の道を照らす、淡い光となっておくれ――
 窓枠に足をかける。ひと思いに飛び出すと、風を切りながらゴディバは落ちて行った。城の外壁が滑る様に下から上へ流れていく。肩から、プルガシオンが離れた。闇の中でうっすらと光を帯び始め、光の珠と変わる。そして――次に瞬きをすると、彼はもう愛らしい白イタチではなかった。
 豊かな鬣を蓄えた、八本足の白馬と化していた。どんな馬よりも速く戦場を駆け抜け、風さえもプルガシオンの前には道となり、天高く疾駆する。『戦姫』の駆る、この国で唯一の天馬だ。
 鬣を掴み、プルガシオンへと身体を寄せる。彼の逞しい背に空中で跨ると、束の間の浮遊感は終わった。今度は、どんどん天高く飛翔してゆく。目に見えない風の道を走り、高く、高く、駆け上がる。
 飛び出して来た城は、今や遥か下にある。開け放したままの窓から漏れるランプの光も、豆粒のように小さかった。
 部屋の扉を閉ざしていた近衛騎士達も、まさか姫殿下が窓から飛び降りるとは思うまい。彼らは、いつゴディバがいない事に気が付くだろうか。その前に忠臣の一人であるナディアと合流し、できるだけ遠くへ行きたかった。
 まずは、万が一の為に決めておいた合流場所へ。
 前を向き、風の来る道に目を向けた。進むべき北東の空には、黒く蠢く大きな雲がある。――闇。それは周囲に瞬く星すらも光を失う、魔の道のようだった。
「さあ……進みなさいゴディバ。フランベルグの、ヘレの、未来のために――」
 プルガシオンの白い身体が、闇を穿つ一点の滲みとなる。
 それは地上から見たら、ゆっくりと空へと昇る、奇妙な流れ星に見えたに違いなかった。

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