puppy(1)-覇淮+艾


 大陸の北に位置するこの地方にも、穏やかな春が過ぎれば季節は廻り今年も夏がやってくる。
 年若い虎達が塒を構える南に比べれば此方は流石に北の高地、夏といえど大気に湿りが無い分随分と過ごし易いとは思うのだがそれでも猛暑は鎧を纏い戦う事を生業としている者達にとっては
無視出来ない厄介な敵である。
 清らかな水をその翠の懐に湛えた湖が夕焼けの橙に見事に染められるこの刻も、幕舎の中は身に纏った薄い布地の下にじっとりと汗を滲ませるような熱気に包まれていた。
 夏、と呼ばれる季節には未だ2月以上早いにもかかわらずこの状態、心頭滅却しても暑いものは暑いのだ。
 暑さを感じるのは鍛錬に身が入っていない証拠だ、と部下に無理を強いる隊もあるときいたが、水も満足に摂らせない状態の進軍で倒れる者が増えては士気を削ぎ悪戯に力を弱めるだけだ。
 今日は早々に兵達には休みを与え、太陽が天頂を通り過ぎた後は自分ひとり黙々と彼方此方の伝令から届けられた情報の整理と雑務をこなしているうちに気がつけば足下で存在を主張する影が随分と長く背丈を伸ばしていた。
 日が暮れてから闇に紛れて東へ戻る伝令に急を要する書簡を託し、後は明日の為に己も身体を休めておこう…と一息吐いた所でトウ艾は幕舎の外に見えた奇妙な光景に目を瞬かせその太い眉を寄せた。


 風に煽られた穏やかな波が湖の縁を擽る清らかな畔。
 数歩、水に入った辺りだろうか。腰の辺りまでとぷりと浸かり上等な着物の裾を緋鮒の尾鰭のように漂わせながら深みをじっと見詰めるその姿は。

「……郭淮殿か?」
 水辺に打ち捨てられた石仏のように青白い仏頂面を保ちながら半身を水中に浸し、微動だにしないその様子は異様としか言い様がない。
 彼の事をよく知らない人間が見れば、いや逆に半端に知る人間が見ても恐らく入水自害前の思い詰めた状態と取られて大騒ぎになるだろう。
 …が、しかし幾ら普段病に侵された身を嘆いていたとしてもその様な愚行は決して起こさない人間だという事もよく承知している。
 それならば一体何をしているのだろう、と心に湧いた疑問を解決するべく、少しの逡巡の後自分もそのまま野営地裏手の湖の畔へ降りてみることにした。

 緩やかな坂を下り、ざく、ざくと瑞々しい青草の茂みを掻き分ける。
 

「失礼、郭淮殿。先程から一体何を…?」
 水際で軽く一礼し彼の名を呼べば、彼は此方に気付いたらしく面を上げ、そして己を確認すると同時に何とも言い難い微妙な表情を浮かべて見せた。
 不味い所を見られた、というよりは今の状況を何と説明すれば良いのか迷い戸惑っているような雰囲気に、ますます疑問符が頭の中で跳ねまわり取り敢えず真っ直ぐに彼の元へと歩を進めた。
 深い場所より浅い此方へ、打ち寄せる小波が草履から覗く爪の先を撫でては戻っていく。
 その冷やりとした感触を肌で直に確かめたくなり彼に倣いざぶざぶと水の中へ脚を沈めた。
 腰のあたりまで深く浸かっている彼の傍らに並び、ふう、と火照りを冷ます清らかな水の慰撫に身を任せているとそれまで無言で背を向けていた郭淮がやれやれといった顔で此方を振り返り片眉を寄せてみせた。


「濡れますよ、まったく…物好きな御方だ」
「郭淮殿こそ。先程から一人で何をしておられるのか」
 水浴びと言った風でもなくこのような場所に何用か、そう問えば彼は無言で、それまで水中に沈めていた腕を此方に掲げてみせた。
 骨と皮の隙間、生命維持に必要最低限な肉が張り付いているような細腕にしっかりと握られているそれは。
「縄…ですか?」
 細いながらも頑丈なそれは自分もよく目にするありふれたもの、縄梯子を編んだり進軍の際崖を降りたりする時の必需品だ。


 突然見せられた予想外のものに呆気にとられた顔をしていると、郭淮から数間程離れた水面がゆらゆらと波打ち、徐に水の中からもそりと茶色の塊が現れたものだから
声には出さなかったものの思わず後方に後ずさってしまいそうな位驚かされた。
「なっ……?!」
 一見毛玉のように思われたそれはきょろきょろと辺りを見回すと、まるで両手両足を縛られた罪人のような不自然な動きでびちゃびちゃと不器用に水を掻き静謐な湖に出鱈目な波をたたせはじめた。
 そしてまたとぷり、と沈む。
 どう贔屓目に見ても妖。もしくはこの湖で不遇の死を遂げた幽霊。

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