△charm(1)-覇淮


good luck charm

 ナァ、ナァ、ナァ、と吐き出す自分の声が母の生家で飼っていた羊達の鳴き声の記憶と重なりいい加減一方通行な接触にもうんざりしてきた頃、漸くこちらを振り向いてくれた青白い顔が
やはり俺と同じように心底うんざり、といった様子で重苦しい溜息を吐いて見せた。

「何の御用でしょうか」
「何のって…さっきから俺が待ってるの分かってるっしょ?」
 背後でナァナァ鳴かれると職務が捗りません、と皺の寄った眉間に指先をあてやれやれと首を振る郭淮に、俺は今何刻だと思っているんだよととうに天頂を通り過ぎた月を仰ぎながら頬を膨らませた。

「誰のせいで羊みたいに鳴かされてると思ってんの、聞こえてるなら返事くらいしてくれたっていいだろ」
「…鹿の筆はどうにも遣い辛くていけません。羊ならばその毛を頂いて良い筆を拵え、わたくしの仕事の効率を上げる事も出来ますが生憎貴方はまだ綿埃のような羽が生えたばかりの雛鳥のようで」
 芝居染みた動作で大袈裟に嘆く姿に口の端がひくりと引き攣った。
 落ち着け、落ち着け夏侯仲権。父さんも折に触れて言っていたではないか何時如何なる時も忍耐、努力、平常心を忘れずについでに美味い物は真っ先に喰えと。
 この程度の嫌味でめげていてはこの一癖も二癖もある男と対等には付き合えない。ここで怒ってしまっては相手の思う壺なのだ。
 自分と郭淮とではまず口論にすらならない。
 一方的に言い負かされて歯軋りする羽目になるのは今までの経験上嫌というほど分かっている、ここでの最善の策は子供扱いされる事に腹を立てるのではなくそれをこちらの武器として有効に使う事である。


「なぁ〜…いいだろ?そんな難しい顔して文字ばっか書いてると腰曲がって戻らなくなっちまうって」
 無邪気な子供の顔で小首を傾げ、郭淮の眉間に寄った皺を指でなぞり笑って見せた…が、そう簡単にはいってくれないらしく標的は不機嫌を露にしたまま。これはなかなか手強い。
 ならば次はこうだと背後にまわり、薄布に覆われた細腰に両腕を廻してぎゅ、と抱き付き、もう待ち切れないんだけど…と擦り寄りながら甘えてみせる。
 すん、と背に鼻を押し当てて吸い込んだ香りは女が纏うような甘いものではなかったけれども、煤と膠の匂い…紛う事無い彼の香りが鼻を擽りずっとお預けをくらっていたせいか妙にざわついた気持ちにさせられた。
 しかし幼子の頃ならば効果覿面、あの厳格な伯父にさえ飴を買わせた勝率十割のこの奥義にも郭淮は絆されてくれず、待ち切れないならば先に寝ておしまいなさいとあっさり切り捨てられてしまった。

「いやいやいや…そりゃないだろ、何の為に今まで待ってたと思ってるんだよ」
「皆まで言われなくてもわたくしの腰に押し付けられているもので充分理解できますが」
「んじゃ話は早いや、郭淮、な?いいだろ?」
「駄目です」


 こちらの如何ともし難い状況を理解しているなら尚更。一度臨戦態勢になってしまった雄の生理現象を鎮めるのがどれだけ大変か、同性ならば分かっているだろうに。
 頑なに拒み続ける彼にとうとう押し止めていたものが決壊し、トン!と片足を兎のように踏み鳴らして憤りの儘薄い背中に額をぐりぐりと押し付けた。
 ああ、そうだよ自分は未だ聞き分けのない子供なんだよこん畜生。
「夏侯覇殿…」
「大体こんな山積みで持ち帰ってきてさ、昔っから無理ばっかりしてるから身体壊すんだろお前は」

 早朝早くから日が沈むまで休む暇もなく職務をこなした上、その後明け方までこんな調子で連日身体を酷使すればあちこちガタがくるのは当然の話だろう?
 不器用な生き方が病を自ら身の内に招き入れているようで、どうにも黙って見ていられない。
 大体机の上の大半を占領しているそれらはざっと見る限り、処理に急を要する伝書ばかりではない筈だ。
 それならば今日はもうこんな事御仕舞にしてしまえ、と不毛な時間を力づくで強制終了させるべくその腰に廻した両腕に再度力を込めて「よっ」と強引に担ぎ上げた。
 前置きもなしに荷物の如く手荒に持ち上げられた郭淮が、驚き両腕をバタつかせて暴れるものだから危く此方までふらつきそうになってしまったが、伊達に毎日背丈ほどもある鋼鉄の塊を振るっている訳ではない。
 背後の寝台にもがく痩身を放り投げ、終わり終わり!と勝手に机の上を占領している書簡の束を片付け始めると、ふと、予想していた己への苦言が聞こえてこない事に気付き不思議に思って面をあげたところで
呆気にとられたような顔で此方を見詰める郭淮と視線がぶつかった。

 眼前で柏手を打たれた猫のように硬直し、薄く口唇を開いたままぼんやりと見開かれた瞳は、俺を通して一体何を見ている?


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