戯(ハレマカ)1
置いて、いかないで。
夜の帳が下り、冷え切った空気に身を震わせる己を置いてひとり船から降りていってしまう男に幾度となくマーカーの心の中で繰り返されたその言葉。
大きな空飛ぶ鉄の塊に一人きりで取り残され、背を向ける主を見つめながらその言葉を繰り返し、繰り返し。
今までに幾度そんな夜を一人耐えたのかも数え切れない。
もっとも一人で取り残されることが怖いわけではない。
これでも齢12を数え、彼に拾われた当時よりは幾分か背丈も伸び、声とて幼児特有の甲高いものから掠れたものに変わり・・・ずいぶんと心も身体も成長しているのだ。
いまさら幽霊が怖いと怯え泣くような歳でもない。
幼い頃はひどく不気味に思えた野犬の遠吠えも、気にならなくなって久しい。
例え物盗りの類に押し入られたとしても、主のもと修行を積んだ今の自分の力ならば一瞬の後に焼死体に変える自信がある。
間違えても素人相手に遅れをとるようなことはないだろう。
ならば、何故に彼に置いていかれることが不快に思えるのか。
自分でも理解出来ない苛立ちに表情を曇らせる己を、不思議そうに覗き込みながら主は小首を傾げてみせた。
「どした?マーカー」
今夜も、船を降りて朝まで戻らないのだろうか。隊長から与えられた今日の任務は全てこなし雑務も片付け、あとはもう寝るだけという時間なのだからいつもどおり彼を送り出して自分は明日の任務に備えて身体を休めればいい。
それだけのことなのに何故か心はささくれ立ち、真新しいシャツを羽織り外出の準備をする隊長の背を見つめる・・・というよりもむしろ、いつのまにか睨み付けるような視線になってしまっていた己に気付いた蒼の獅子から、咎めるように声をかけられビクリと大きく身を震わせてしまった。
「あっ・・・」
上擦った声で、何でもありません、と続けようとしたが上手く言葉を発することが出来ず、珍しくどもる己をますます不思議そうな顔で主が覗き込む。
・・・近づけられた蒼色の瞳に眩暈を覚えそうだ。
その綺麗な瞳の中に今だけは自分だけが映し出されていると心が認識した瞬間、身体を廻る血が沸き上がるような錯覚を覚え反射的に両腕で己の身体をギュッと強く掻き抱いた。
「ん?・・・どした、オメーどっか具合でも悪ぃのか?」
自身の身体を抱きしめ縋るような瞳で主を見上げる己の額に、そっと押し当てられる暖かく大きな手。
いつものように己に背を向け
いつものように明日の朝になってから、不快な甘い香りを纏い船に戻る貴方に。
ひとつだけ我侭を言えるのならば。
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