▲INNOCENCE ヲルヘン(1)
螺旋のように絡みつく傷跡。
ああコレはもう朽木と変わらないな、と自分自身の両腕をぼんやりと眺めながらヘンリーは独り言のようにそう呟いた。
両腕と両足、薄い皮膚に焼鏝を押し付けたかのように浮かび上がった、毒蛇を思わせる黒い痣の血の拘束。
私の骸に巣食った悪魔が彼に刻みつけた死者の烙印なのだろうが、出来ればその魂と同じ位に綺麗な身体には妄りに傷をつけて欲しくはなかった。…こうなってしまった以上、今更、の話なのだが。
あれだけ喧しかった鐘の音はすっかり止んで、今では耳が痛い程の静寂だけが閉じられた空間を支配している。
腐った肉を潰し固め拵えたような紅い部屋の寝台の上、一糸纏わぬ身体がこちらを振り返り天鵞絨の昏い瞳を揺らして優しく微笑みかけてくる。
なあ、此れは君を救う事が出来なかった私に与えられた罰なのだろうか、と。
「近頃色々な事が思い出せなくなってきているんだ、記憶の引き出しを開けようとすると途中で何かが閊えていて…初めは苛々していたさ、でもそのうち開かなくてもいいやと思うようになって、最後には開けようとしていた事さえ忘れてしまって…」
霧に覆われた頼りない世界で必死に目を凝らし自分の位置を測ろうとしている迷い子、そんな表情で誰に言うでもなくぽつりぽつりと呟き続けるヘンリーの頬を愛しげに撫でてやると、彼の震える指先が私のそれに添えられた。
既に昼夜の区別もなくなって久しい。錆びた金網の目と血管とが複雑に絡み合った壁に四方を囲まれたその部屋に満たされている澱んだ瘴気にヘンリーの精神はゆうるりと蝕まれて端から舐め蕩かされてしまったようだ。
穏やかに彼の時は止まっているようだが、時折発作のように押し寄せてくる得体の知れない恐怖から逃れる為に、我を失い自分の魂をこんな場所に拘束した男に縋り取り乱し助けを乞う姿は憐れとしか言い様がない。
羽根を毟られ止まり木から落ちた小鳥が籠の隅で震え蹲っているようだ、とヘンリーの髪を梳きながら溜息を吐く私の頬を不意に一筋温かいものが滑り落ちた。
私の異変に気付いたヘンリーが指先で掬うように拭ってくれてはじめてそれが涙だという事に気付く。
「どうした?ウォルター」
まるで、両目を抉られた犬。
差し伸べられたヘンリーの手に頬を擦り付け、優しい魂の器を壊さないように、慎重に、腕の中に閉じ込めた身体に自分の骸をぴたりとあわせた。
触れた場所から伝わる温かさに身体の震えをどうにも止められず、腐りきった身体から止め処なく滲み出す透明な雫を瞳の縁からぽたり、ぽたりと落としながら言葉を紡ぐ。
「ヘンリー…ヘンリー…」
胸に顔を埋め背に爪をたて針の飛んだレコードのように彼の名を何度も何度も繰り返すだけの己の髪を、ヘンリー・タウンゼントだったもの、は少し困ったような微笑みを浮かべたまま優しく指で梳いてくれる。
「ウォルター、大丈夫だから。大丈夫だから…」
私はずっと君の傍にいるよ、と穏やかに紡がれた聲に重なるように赤い悪魔の嘲笑をきいたような気がして、その耳障りな音を追い払う為に私はゆっくりと彼の身体を組み敷いた。
「ウォルター…?」
はじめは死ぬような騒ぎで抵抗していたヘンリーも、幾度も繰り返し抱くうちに何時からか大人しく身を任せてくれるようになっていた。
精神を防衛する為に凌辱にすら順応していく肉体、成る程此れは憐れなものだ、と。
愚かな己は本当に憐れな者が誰なのかも分からずに差し出された肉を食み魂を存分に啜り続けていた。
「ヘンリー、私だけだ、お前には私だけなんだ。お前を愛する事が出来るのはもう私しかいないんだ、頼む私だけを見てくれ。私だけ、感じていてくれ」
余計な事を考えないように。悲しい事を思い出さないように。
…いけないうまく焦点が定まらない、私が見ている男は幻ではなく本当に今この腕の中に在るのだろうか?不安を露にした声で幼子のように縋る私を今彼がどんな表情で見るのかなど知りたくなくて、若枝のように真っ直ぐしなやかに伸びた脚を片方だけ抱え上げてその内側にそっと口付けを落とした。ひとつ、ふたつ、と続けて刻まれる紅い刻印。
口唇が触れた場所には幾輪もの艶やかな紅い花が散り、ヘンリーはその刺激に耐え切れないようにクッ、と喉を反らせた。
驚く程に敏感な身体はどこに触れられても、快感を生み出すらしい。
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