無題 ヲルヘン(3)


「ほら、ヘンリー」
「………」
 深い翠色の瞳を輝かせて、いそいそと私の鼻先に一粒のポップコーンを突き付ける彼の姿。
 確かに周りの皆はそうしている。が、
 幼子とその親、もしくは若いカップル同士ならばとても微笑ましい光景なのだろうが私もウォルターもいい歳をした大人で、男同士だ。
 不思議そうにこちらを眺める老夫婦の視線がある意味拷問に感じられる。
「あの、ウォルター、私は…」
「ほら、あーんだ。ヘンリー」
 真顔で迫るな、怖いから。分かったよ、分かった食べればいいんだろう食べれば。
 ひくり、と自分の口唇の端が引き攣ったのがよくわかる。一旦言い出した事は絶対に撤回せず、やると決めたらそれがたとえどんなに迷惑なことでも遣り遂げる男だということを嫌という程知っているからこそ、私は深い溜息と共に早々に白旗を揚げた。
 ぱくりと私が口で受け止めたそれにウォルターはにっこりと笑い、下手糞な口笛を奏でながら自分の口にも2粒3粒と放り込み上機嫌で咀嚼する。
「大切な存在と分け合う食事というものは私が思っていた以上にいいものなんだな、ヘンリー」
 再び差し出されたポップコーンと同じタイミングで頭一つ分高い位置から降ってきた優しい声色は、余りにも不意打ちすぎて私の喉をひどく詰まらせた。

 噎せる私の背を笑いながら叩く大きな掌からはもうあの血の臭いはしない。
 犯してしまった過ちは消せるものではないが、過去に囚われすぎて前を向かない人間は神が差し伸べた慈悲の手に気付くことも出来ない。それはいつか私が彼に言った言葉。
 儀式の失敗と共に彼が一度に失ってしまった、母親、信仰、それからこの世に存在する意味。
 …おそらく帰る場所も、だろうか。
 それらをすべて自分一人で埋めてやれるなどとは思わないが、彼の狂気を止められる最後の楔としての役割だけでなく、私自身の意思。ヘンリー・タウンゼントの望みとしてこれからの生を彼と共に探していこうと思った。
 その決意に後悔など微塵もしてない。

「これだけの量があると食べきるのも一苦労だな」
「無理しなくてもいいさウォルター。残りは部屋に持ち帰って、ポップコーンミルクを作ろう」
「何だそれは?ハハ、ヘンリーは本当にいろいろなことを知っているな」
「ミルクとポップコーンを同じ量だけカップに用意するんだ、まぁ口で説明するよりもやってみせる方が早いかな」
 心底感心したという顔で食べかけのポップコーンを片付け、彼はベンチから先に立ち上がり私に向かって自然な仕草で大きな手を差し伸べてくる。
 そんなウォルターの手をとりながら、私は彼がこれまで願っても決して得る事が出来なかった、『当たり前の幸せ』を一つでも多く伝えていこう、まずは私が幼いころに母に拵えて貰った単純だが優しいおやつからはじめてみようか、と、
 そんなことを静かに考えていた。この夢のような平穏がいつまでも続く事を心の底から強く祈りながら。





「…あの、すまないが部屋まで手を繋ぎっぱなしというのは勘弁してくれないか…周りの視線が…」
「遠慮するなヘンリー。水臭いぞ」
「……いや別に遠慮しているわけではなくて」

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