sick ヲルヘン(3)


=Henry

 二度。そう、確か二度、目が覚めた。

 はじめは瞼越しに感じられるオレンジ色の柔らかな光に、暗闇に繋がれていた意識がゆるりと覚醒を促された。
 時折聴覚が捉える硬質な音と額にあてられた大きな掌の温もり、まるで微温湯に全身を浸している様な心地よい感触、…いつまでもそれを感じていたくて私は夢と現実の狭間ではぁと小さな溜息を落としていた。
 今は何も考えずにこの波にたゆたっていたい。
 …何も考えたくはないが、取り敢えず頭の中を占領している重い頭痛の根と全身を包む倦怠感は煩わしい。笑顔を作る事も億劫になるような痛みは一度目の覚醒では未だ私の中にどっしりと居座り、立ち去る気配を見せてはくれなかった。
 ああ、こんな調子ではウォルターにまた心労をかけてしまうなと心配性の同居人の顔を思い浮かべやれやれと寝返りをうつ、瞼が重く瞳を開く気にもなれずに只重力に引かれるが儘、堕ちていく身体を感じる。
 私は未だ夢の中に居るのだろうか、それともこれは現実なのだろうか。
 耳が痛くなるほどの静寂に急に居心地の悪さを感じて、俄かに圧し掛かってきた不安を振り払う為にきつく閉じていた瞼を薄らと開いてみる……と


「目が覚めたか、ヘンリー」
 頭上からふうわりと降ってきた穏やかな声にぱちぱちと瞬きを繰り返し、枕元に立ち私を見下ろすウォルターの姿に安堵の溜息を吐いた。
「薬と食事を用意したのだが 食べられるか?」
 先程聞こえたカチャン、という硬質な音は成る程このスープ皿が立てたものだったのかと彼に支えられながら上半身を起こす。
 余り食欲は無かったが普段は全く料理をしない彼が腕を揮ってくれたのだ、折角だからと温かい湯気が立っているそれを馳走になる事にした。
 真ん中に落とされた卵をスプーンで割り崩し、掬い上げふうふうと息を吹きかけてから甲斐甲斐しく私の口元にそれを運んでくる彼に、雛鳥になった気分だと苦笑し従順に口を開けた。
 そこではじめて彼が拵えてくれたものが、私が母から教わった数少ない基本料理の一つ…レシピなど存在しない物だという事に気づいて目を瞬かせ「君が?」と視線で問えば、「見よう見真似でやってみたのだが…」彼はそう言い困ったように首を傾げて見せた。
 
 私を労ってくれる彼の気持ちがそのまま中に溶け込んだような優しい味のスープを綺麗に残さず腹に収め、市販の鎮痛剤を飲んで再び寝台に横になろうとする私に彼が落ち着かない様子で「何か他に出来る事はないか?」とたずねてきた。
 声は未だ上手く出せないがウォルターが用意してくれた食事と薬のおかげで実際随分と楽になったのだ、他には何もいらないよ、とそうメモ用紙に書こうとしたが途中である事を思いつきペンを止める。
 これはささやかな悪戯、大きく書き直した私の文字に覗き込んでいた彼が目を丸くする様を微笑みながら見守った。
『子守唄』
 リクエストを書いたメモ用紙をさっさと彼に押し付け私は返事を待たずに布団に潜り込む。
 今まで彼が歌を歌っている所など一度も見た事はなかったから断られる事を承知の上での我儘だったのだが、ウォルターはううむと暫く考え込む様子を見せた後、私の伏せた瞼の上にそっと掌をあて「そもそも知っている歌が余りない」と前置きをした後で静かに優しい旋律を紡ぎ出した。
 トン、トン、と指先で膝を叩き小さくリズムを取りながら。
 少しハスキーな低い声が鼓膜を擽り、どこか物哀しさを感じさせる優しいメロディは眠りの縁に佇む私の手を取り穏やかに安らげる場所へ導いてくれそうな気がした。
 嗚呼確かこれは丸い眼鏡がトレードマークの、生涯をかけて愛を説いた汚れた英雄の祈りの歌。
 生みの母に見捨てられ愛した国にも裏切られ、それでもなお人を信じる事の尊さを音楽に籠め続けた稀代の芸術家の最期は一発の銃弾によって齎され悔やむ言葉も出ない程に呆気無かった記憶がある、


「ヘンリー?……眠ってしまったのか?」
 大丈夫、もう少しだけ眠ればきっと何時も通りの私に戻れるから。
 

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