sick ヲルヘン(1)


=Walter


 ほんの、数十分前は元気な笑顔を見せてくれていたのに。

 力の抜けた左手から滑り落ちたスーパーの紙袋が、足元でぱさりと乾いた音を立てる。
 しかしその音も大きく瞳を見開き息を詰めたままの私の耳には届かなかったような気がする。
 つけっぱなしのテレビが奏でる砂嵐をずっとずっと小さく絞ったような、若しくは厚いコンクリートの壁越しに表の騒がしい雑踏を感じているような…、今、脳を支配している此れは音というよりもノイズと表現した方が相応しいのかもしれない。
 うわんうわんと反響しあって思考を邪魔する雑音と、胃の内側に手を突っ込まれぐじぐじ内壁を擦られるような不快感。ともすれば膝から崩れてしまいそうになる重い身体を気力だけで引き摺り私はやっとの思いで「それ」の傍らに辿り付いた。

「…ヘンリー?」

 落ち付け、冷静になれウォルター・サリバン。
 今、私の目の前で寝台に上半身だけを預けた儘突っ伏している此れは紛れも無く己の同居人であり、私にとって自分の命よりも大切な存在…元、最後の生贄候補のその人である。
 着衣に乱れなどはないが思い切り不自然な格好で床に伏せぴくりとも動かない。
 嗚呼、この光景は私が以前赤い悪魔にとり憑かれていた時、額を撃ち抜いてやった犠牲者の死骸とまるっきり同じ……ではないか。
 しかし彼、ヘンリー・タウンゼントはつい先程スーパーマーケットに出掛ける時に「いってらっしゃい、ウォルター。車に気をつけて」と笑顔で手を振り私を送り出してくれたばかりなのだ。
 そして…私が帰ってきた時もきちんと内側から鍵はかかっていた。
 密室殺人、という言葉が不意に脳裏に浮かんでしまい、慌ててその不吉な想像を追い払うように大きく頭を左右に振った。
 縁起でもない、大体ヘンリーのように人畜無害な男を理由も無しに部屋に監禁して嬲り殺そうとする血も涙も無い悪鬼がいるならばそいつは即刻首を掻っ切って無間地獄へ堕ちるべきだ。
 ――そう、未だヘンリーが…この世の側の住人であるのか、まずは何よりも先にそれを確かめなければならない。
 ばくばくと音を立て、出鱈目な速さで鼓動を刻み続ける心臓を必死で宥めながらヘンリーの白い首筋におそるおそる指を伸ばして、触れた脈動に一先ず胸を撫で下ろす。
「生きて……る…」
 それまで水中を歩いている時のようにくぐもって聴こえていた己の声と心音が、その瞬間ざあっと一気に頭から降り注いできた感覚に押され私は思わずその場に膝を突いてへたり込んでしまった。


 良かった、良かった、良かったと胸の前で両手を組みママに心からの感謝の祈りを捧げた。しかしそれならばそれで何故こんな状態で倒れているのかそちらを問わなければならない。
 そっと抱き起こしてみれば彼の端正な顔には苦悶が色濃く滲んでいる。これは…、もしや流行り病の類なのだろうか?
 ぐったりと全身の力が抜けて本物の死体と見紛うばかりのヘンリーの身体を慎重に寝台の上に運び上げ、額に掌を乗せてみると驚く程の冷たさに背筋がぞっとした。
 熱はない、いや全くその逆だ。春の日差しのようにいつも私を温めてくれるヘンリーの白い肌が今は何処も彼処も氷のように冷たいのだ。24年間は普通の人間として生きてきた私だがこんな症状は今まで一度として見た事が無い。
 生きながらにして死んでいるようなその姿を前に救急車でも呼ぶべきかと途方に暮れる私に、それまで何の反応もみせなかったヘンリーが苦しげな息の中薄く瞳を開いて『大丈夫だから』、と酷く掠れた声で呟いた。
「私にはどう見ても大丈夫には見えないのだが」
「おかしいな、急に意識が遠くなって…いや、でも……うん、大丈夫。たいしたことないから、心配するな、ウォルター」
 …重病人を心配するなとは彼も酷な事を命じる。それが私にとって命よりも大切な存在となれば尚更心配するなといわれてハイソウデスカじゃあしません、と受け入れられるものではないだろう。
 若干腹立たしげに嫌だ、と口唇を尖らせる私にヘンリーは苦笑いを零し、寝台の傍らで立ち尽くした儘の私を自分の方に手招きで呼び寄せた。


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