teddy bear ヲルヘン(1)


 電車を降りて、地下鉄のホームからはずっと走りっぱなしだったような気がする。

 もうすぐ日付もかわり12の数字に抱かれて時計の長針と短針が重なるような時間帯、――ああ、いつもの私の帰宅時間とは比べようもないぐらいに遅くなってしまった。
 最終電車に乗り過ごさないよう千鳥足で構内を急ぐ人々の間を縫うように走り抜け、地上へあがるエスカレーターは誰も使っていないのをこれ幸いと一段抜かしに駆け上がった。
 私の他には人も疎らな薄暗いこの空間、ブゥンと無機質な音だけが響く長い長いそれはいつぞやの悪夢を思い起こさせたが今は壁から這い出て私を邪魔するような厄介なゴーストはどこにもいない。
 エスカレーターを過ぎて、改札を出てからまた十数段の段差を上がればそこはもうアパートのすぐ目の前の通りに繋がっているのだ。
 流石に日頃から運動らしい運動をしていない身体にはここまでの道程も楽々とはいえず多少息が上がってしまったが、悠長に歩道で呼吸を整える時間も勿体なく思えてゼエハアと犬のように荒い息を吐きながら
そのまま大通りの横断歩道を横切り、古い建物だが立地的には文句のつけようがないアパートの入口までたち止まることなく駆け抜けた。
 

 小雨が、降っていた。黒いアスファルトの上に静かに優しく降り注ぐ細く温かい雨が。

 
 単純に仕事が長引いて、連絡を入れようと思う度に些細な邪魔が入って以前世話になった同僚が予想外のトラブルにも見舞われて何か助けになればとあちこちに連絡をとっていたら気付けば最終電車ギリギリの時間になってしまって…… 
 いや、言い訳はやめておこう、と草臥れた鞄を胸に抱え直しアパートの階段を三階まで駆け上がった。
 ほんの二時間帰宅が遅れただけで置き去りにされた犬のようにそわそわと落ち着きなく部屋の中をうろつき回る彼のことだから今日は相当、心配をかけているに違いない。
 どんな理由があったとしても連絡を怠った事は間違いだった。
 そういえば先程地下道から抜けた時に見上げた302号室の窓は真っ暗闇に包まれていた。
 もしかしたら怒って先に寝てしまったかもしれないな、と、気ばかりが急いてポケットから上手く引き出せず、小さな金属音をたてて私の手から滑り床に落ちてしまった鍵を拾い上げて302号室の鍵穴に差し込んだ。
 今夜は彼に申し訳ないことをしてしまった、明日の朝起きたらまずは真っ先に謝ってそれから…。

「…ウォルター?」
 既に同居人が寝ているのならば起こしてしまうのも可哀想だと、出来るだけ静かにドアを開けて部屋に入った私の視界に飛び込んできたものは、予想に反してこちらに背を向け項垂れたような格好でソファに座っているウォルターの大きな背中だった。
 窓の方を向いて俯いている為こちらからは表情は分からないが、電気もつけず、テレビもつけずに薄暗い部屋で彼は一体何をやっているのだろうか。
 …矢張り、怒っているだろうか。
「ウォルター…?どうしたんだい、ああ、そうだ。すまない 今日は…」
 声をかけてみても全く反応のない彼に、具合でも悪いのだろうかと心配になり恐る恐る近寄ってみると

「……!」

 うぐ、と声を詰まらせ思わず後ずさる私の前で、ゆらり、と漸く今こちらに気付いたような反応を見せ彼が緩慢な動作で顔をあげた。
 彼が動くと同時にムッと立ちのぼった濃密なアルコール臭は余りにもこの部屋には不釣り合いなものでついつい眉間に皺が寄ってしまう。
 彼が足の間に抱え込んでいる瓶はつい先日同じアパートの住人である世話好きの婦人に押し付けられたどこの量販店でも売っているような普段使いのワインなのだが、そもそも彼がそれを口にすること自体が異常なのだ。
 酒の匂いに滅法弱いらしく、私が時々嗜むような時もくしゃみをしながら嫌そうに顔を顰めて、一度も口にしようとしたことはなかったというのに。



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