mirror ヲルヘン(1)
上階での耳が痛くなる程の静寂が嘘のように思える。
その、凝縮された地獄を思わせる最下層の部屋は機械仕掛けの天使が啼く悲鳴のような福音で満たされていた。
天井にぽっかりと空いた虚ろな眼窩のような穴はこうして下から見上げてみると恐ろしい程に高く、この世界に物理的な法則は適用されないと分かっていてもよくここまで怪我もなく降りてこられたものだとあらためて身震いした。
くらくらするような血臭と錆のふたつの紅に塗れたその部屋で、哀しい運命に翻弄された殺人鬼、ウォルター・サリバンは儀式の最後を飾る生贄としての私を静かに待っていた。
「…ねぇ」
「なんだ幼きウォルター、もう暫くの辛抱だ。すぐに儀式は完成されてお前の望みも全て叶う…」
ほんの瞬きをする間の時間だった、私は自分の目を疑う。
この子はいつのまにこの閉ざされた空間に現れたのだろうか。
幾度となく様々な世界で姿を見てきた殺人鬼ウォルター・サリバンの子供の頃の姿を留めたそれ、が、血に汚れた彼のコートの裾を握り締め、何か言いたげにウォルターを見上げていた。
幼い子供の姿をしているとはいえ、私にとってはこの子もウォルターと同じように決して気を許せない、得体の知れない存在には変わりないのだが、実際一度瀕死の重傷を負ったアイリーンの窮地を救っている。
もしかしたら自分自身の愚行を止める為に現れたのかもしれないし、反対に母を取り戻せる喜びに彼の儀式の顛末を見届けにきたのかもしれない。
果たしてこの場面で彼の存在が吉と出るか凶と出るか。
強張った掌はぎりり、と音をたててすっかりこの重さも手に馴染んでしまった斧を握り直し、額を伝う汗を拭うことも忘れて私は彼等の遣り取りに全神経を集中した。
ごくり、と喉を鳴らして次の出方を見守る私の目の前で幼いウォルター・サリバンは悲しげに眉を歪めて、今まさにアイリーンを昏い血の池に引き摺り込もうとしている連続殺人鬼と成り果てた自分自身に縋り口を開いた。
「おしっこ」
「……」
「……」
私とウォルターの動きが同時に止まる。
この切羽詰まった場面でまさかそう来るとはおもわなかった。
この位の歳の子供を持った親ならば一度や二度は経験するかもしれない出来事だということは分かっているが、何もこんな緊迫した最終決戦の前に言い出さなくても。
硬直する大人二人に構わず、幼いウォルターはその場で地団駄を踏むように足を鳴らしながら泣きそうな声でもう一度おしっこ、と訴えた。
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