un cauchemar シン&ヘン(1)


〜1 Cynthia

 人気のない薄暗い地下鉄駅の構内、それなのに暗がりの其処彼処から感じる数多の禍々しい「何か」の気配。
 …この場所には普段あり得ない筈の獣の唸り声。
 一体何が起こったの、どうして、いつからこんな可笑しなことになってしまったのかしら。
 苛立ちを露にしながらカツカツとヒールの音を響かせ通い慣れた筈の地下鉄の構内を只管あてもなくうろつき回る。
 本当ならばこんな場所からは一刻も早く出たいのに。地上で目に出来るものがいつもならうんざりするスモッグ越しの太陽と排気ガスに変色した街路樹の色でも、今の状態と比べればどれだけ安心できることだろう。
 焦りは人の心から慎重さを簡単に奪い去ってしまう。
 得体のしれない何かが息を潜めて私の周りの闇に融けていることをずっと感じていた筈なのに、早く地上へ出る階段を探さなければ、という焦燥が一瞬で膨れ上がった傍らの殺気に対する反応を遅らせてしまった。
「きゃっ…!!」
 長い舌をだらりと引き摺り、生きたまま身体は腐敗しているのか皮膚のあちこちが爛れ剥がれ落ちそうになっている大型犬。
 そいつがこちらに飛び掛かってくるのに、私は為す術もなくぎゅっと目を閉じて両腕を顔の前で交差させる。
「危ない!」
 足元に落ちたハンドバッグが床に中身をまき散らすのと、私と狂犬の間に突然割り込んできた黒い影が金属音を響かせて犬の脳天を何か棒のようなものでたたき割ったのと、…それは丁度同時の出来事だった。

 ぐしゃ、と重い音を立てて犬の死骸…元々死体のようなものだった物が見た目どおり本物の物言わぬ動かない物体に戻り地面に赤い血膿を飛び散らせながら落下する様を瞬きも忘れてみていると、黒い影は
ゆっくりとこちらを振り返って酷く頼りない笑顔を向けながら「怪我はない?」と数時間ぶりに聞くヒトの言葉を発した。


「…なんてことなの」
 ああ、私って女はどうしてこうついていないのかしら。
 待ち侘びた夢の中のヒーローがこうもパッとしない普通の男だなんて。
 どうせ夢なのだから、ハリウッドムービースターのようなとびきりのハンサムか、WWEのレスラーみたいに筋骨隆々とした逞しい男性が出てきてくれれば良かったのに。
 私の夢の中なんだから監督も脚本も勿論私。…あんたじゃエキストラが精一杯、出演料なんか払えそうにないわ、そう落胆の色を隠さずに「あなた、名前は?」と尋ねればエキストラ君は跳ね返った血を丁寧に拭いながら
「ヘンリー。…ヘンリー・タウンゼント。君は?」と生意気にも私に名を聞き返してきた。
「…何よ、私の夢なのに私の名前も知らないの?」
 可笑しな事を尋ねる男に眉を顰めながら尋ねれば、ヘンリーと名乗った男は困ったように首を傾げて曖昧な表情を浮かべてみせた。
「まぁいいわ、シンシアよ。」
 夢の中で疲れるというのも変な話なのだが実際精神的にも、肉体的にも疲れ果てている今くだらないことで腹をたてたくはなかった。
 素直に名を名乗るとヘンリーは「よろしく」とまた頼りなさそうな笑顔を向けてきた。
 しかしながら普通の男ならば私の容姿を見た途端あからさまに機嫌を取りにくるか、いいところを見せようとして笑えるぐらいに張り切って見せるのに、この男は基本的に表情も態度も全く変わらない、
なんだか拍子抜けしてしまう。
 本当平凡すぎて驚く程何の感想も湧いて来ないわ。頼りないヒーローといえばまずスパイダーマンが浮かぶように、これでピンチに変身したり空でも飛んでくれればまた落差にびっくりする事も出来るのだけれども。

 …この調子ではそれも期待できそうにない。

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