一度は止まった涙が、凛月の顔を見て再び流れ始めてしまう。喉を通して出てくる悲しみを押し込んでただ走った。
凛月は多分私を捕まえに来るから、その前に隠れなければいけない。出来るだけスピードを落とさないように思考を巡らせる。どこも授業や部活で使うかもと決定打にならない私が考えた場所は、一つだけ。
鍵が掛かっていた軽音部の部室まで辿り着けた私は幸運だ。慣れた手付きで開錠し身体を滑り込ませた。中から閉じてしまえばもう顔を合わせることはない。ずるずると扉に背中を預けて座り込む。涙と疲労でぐちゃぐちゃになった顔を膝に埋めて、シャットアウトしたつもりだったのに、今は聞きたくない声が背後から届いてしまった。

「名前、いるんでしょ」

やっぱり私の短絡的思考はお見通しみたい。応えるつもりはないから耳を塞ぐ。ガタガタと戸を揺らす音は私が一番聞きたくないそれだった。

「話を聞いてよ。ねえ、ここ開けて」
「あっち行ってよ!」

お願いだから放っておいて。冷静さが欠けて何を言ってしまうか分からない。要らぬことをたくさん突き刺してしまいそうで怖かった。自分を棚に上げている部分もあったからこれ以上嫌われたくない。だから、そんな風に抉じ開けようとしないで。

「んん、何事じゃ……?」

塞いでいた隙間、棺桶から起き上がってきた吸血鬼と目が合う。
ぱちくりと瞬きを繰り返した後、目を細めながらゆっくりと歩み寄ってきた。

「零、先輩」
「何故泣いておるのじゃ」

腰を折り絡み合った視線に私は正直安堵した。この人は私を傷付けたりしない、味方だと心が叫んでいるのだ。

「兄者もいるの?」
「その声は凛月じゃな」
「鍵、早く」
「……名前がこんな風になっている原因を知っておるのか」

普段だったら喜んで言う通りにしてしまうだろう。けれど、最愛の弟が相手だったとしても諦めきれず、嫌々と首を振って朔間先輩の腕を掴んだ。
とてもじゃないけれど今会える状態じゃないことを察した零先輩がそっと手を添える。こちらを向けと言われているようで私は未だに濡れた情けない顔を自ら晒した。彼の細くて長い指が目元の滴を攫っていく。

「我輩は言ったはずじゃぞ。……泣かせるなよ、と」

そんなやり取りが兄弟間で行われていたことを私は知らない。でもどうしようもなく嬉しくも思う。零先輩は大事にしてくれる。ずっとずっと私のことを守ってくれると確信があったから、凛月の言葉を聞きながら迫られた選択にも、迷うことなく手を伸ばしてしまった。

「うるさい。理由を今から話すんだから、名前を渡してよ」

無言で微笑む零先輩が腕の中に飛び込むように待っていてくれて、甘美な誘いに私は身を任せる。抱き留めてくれた零先輩の腕の中で再び泣きじゃくってしまっても、零先輩は動じずに凛月への牽制をする。

「ううむ。それは我輩が決めることではないんじゃがのう」
「本当だったら兄者だって関係ないんだから」
「じゃが、今名前の涙を拭ってやれるのは凛月ではないぞ」
「……手を出したら、殺すから」

揺るぎないものなんてそこにはない。
慰めるためとはいえ、こんなところを見られてしまっては本当に嫌われてしまうかもしれない。

「我が弟ながら物騒じゃのう。……なあ凛月や、おぬしの覚悟はそんなものか」

零先輩は凛月の名前を呼んでいるのに、それは私にも語り掛けるようにも聞こえた。
覚悟。私だってまだ何も伝えていない。勝手に悲観的になって外部を遮断する癖は直っていない。
そっと距離を取ってずるい自分を引き剥がそうとする。直後、魔物にくいっと顎を掴まれて魔術を使うみたいに、囁かれる。

「渡さぬと言ったら、どうする?」
「零先輩……?」

たとえ話なんてうんざりなのに、私も問い掛けたくなる。どこまでも怖がりで絶対的なものが欲しいと願うなんて愚か者だ。
ふと、今までのことがすべてなかったとでも言うように零先輩が茶目っ気たっぷりに笑う。
目が点になる私から退いて鍵を開けた。目の前にいる凛月は不機嫌そのもので獲物を狩るように兄を睨み付けていた。
私の腕を取って立ち上がらせた零先輩が、放るように凛月に差し出す。

「さあ、仲直りをしてさっさと我輩を寝かせてくれ。まったく、年寄りを痴話喧嘩で起こすものじゃないぞ」

私はクエスチョンマークを浮かべるし、凛月もきっと気に食わないということなのだろう。ムッとしたままの凛月に手を引かれて部室を後にする。私も、振り返ることが出来ずにいた。
かと言って先を行くこの人にもまた恐怖を感じていて、ついに隣を歩くことが出来なくなる予感がしていた。
何を考えているか分からないが、感情の高ぶりが私の手を強く握りつける。痛いと抗議する声で我に返った凛月は、思っていたよりも複雑そうな顔。

「……ごめん」
「別に、大丈夫だけど」

沈黙。零先輩の冗談をどう取ったらいいのか私には分からない。
けれど、何も思わないと言ったら嘘になる。惹かれているのかもしれないという絶対的な芽生えがあるのか、それさえ自分自身のことなのに分からなくて。凛月に見つめられて胸が高鳴るのも事実。

「俺、寄るところあるから。名前は先に帰りなよ」

離れていく隙間を埋めたいと願っていたのにどんどん遠ざかっていく。強くなろうとしたのにこんな言い訳もできない不明瞭な私では追い掛けることができない。
どこで間違えたのかって、きっと誰にも分からない。
とぼとぼ歩きながらそんなことを考えていた。公園でラジカセ片手に音楽を奏でるオレンジ色の髪の男なんて気にも留めずに。

「さぁて、俺のKnightsはどうなっているかな」

不在の王があんずちゃんに見つけられ、登校するまであと少し。
流れに逆らうことも出来ず、どんどん舞台は整っていく。



「なに、珍しいじゃん。くまくんが三年の教室に来るなんて」

翌日、凛月は瀬名の元を訪れた。名前の意見を尊重するために、なんていつか自分のところへ来てくれるという自信はもう通らない。

「セッちゃんに、頼みがあるんだけど」

リーダー不在の今Knightsの決定権は瀬名にある。凛月は打ち明けた。

「名前をKnightsの専属プロデューサーにする」
「……は?」

利害関係の一致で組んでいる自分達は個々の実力は認めている。
何をしようと関係ないというスタンスに、一つ放り込まれた爆弾を、凛月は背負うつもりだった。

「もう離さない」

凛月が持ってきた提案は、何度もドリフェスを企画させて強制的にKnightsのプロデュースに慣れさせるという彼女の意志を無視したものだった。



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