歩くたびに雫がぽたぽたと落ちた様は、まるで彼女の足跡のようだった。
「さいあくだ」
「おやおや、ずいぶん遊んできたみたいだね」
不機嫌そうな表情で教室に入ってきた私の姿を見て、折原は珍しく素直に驚いているみたいだった。
ずれかけた姿勢を正し、携帯電話をポケットにしまう。私はそんな折原しかしない放課後の教室に足を踏み入れる。
「引っ付いて気持ち悪い」
絞ればだばだばと水溜まりを作りそうだ、とぼんやり考えながら歩く。私が進んだ跡を誰かが見てびっくりするかもしれない。ああそれも少しだけ面白そう。
「それで、勝敗は?」
にやにや笑みを浮かべる折原にむっと睨むような視線を送る。傍観者ぶるその好奇心に餌をあげたくはない。
と言っても、彼が楽しむようなことはないのだけれど。
「喧嘩じゃない。ホースの水が掛かっただけ」
花壇に水を撒こうとしていた当番の子たちの慌て様を思い出す。蛇口を捻っても水は全然流れてこなくて、おかしいなと皆が首を捻る。手元が狂う。私が通る。漫画みたいなタイミングでその瞬間につっかえていたそれが直って、勢いよくばしゃあっと。
後はまあ、ご覧の通り。
「名字に恨みでもあるんじゃない?」
「折原じゃあるまいし」
平気だと言うのにいつまでも平謝りを続ける子たちを振り切って、ようやくたどり着いた教室。
我慢はここまでだと、私は着ていたカーディガンのボタンを外し始める。
「うわぁ、ぐっしょりだ」
あの子たちには申し訳ないけど溜め息が出てしまう。当然のようにワイシャツも濡れているし、このまま帰るには少し寒い。そしてこの水を吸った重いカーディガンをどこに置こう。
辺りを見回せば、こちらを年相応の顔で見つめている彼がいた。
「折原?」
「……え、あ、なに?」
焦っているような声で彼は誤魔化すように笑う。私は首を傾げる。異変には気付いたが、大して気になる問題ではなかった。私は自分の席へ向かう。
「名字、そのまま帰るの?」
「うーん」
曖昧な返事しながらどうしようかな、と思考を巡らせる。
このまま帰ってしまうか、乾かす方法を探すか。
「これ、着れば」
倣うように、彼の指がボタンを外して今まで身に着けていたカーディガンを私に差し出す。目はどこを向いているのか、私のことは見ていない。
ワイシャツ姿の彼と、カーディガンを交互に。白く細い姿に、思わず目を細めた。
「折原、寒いでしょ?」
「そっくりそのまま返すよ。だから早く」
「いや、悪いからいい」
押し付けあうことを何度か繰り返してから、私たちはなんて滑稽なことをしているのだろうとばからしくなった。
でも何を考えているのか、お互いにゆずらない。
「そのまま、帰したくない」
二つの異なる音が聞こえたとき、私の身体は白に埋まっていた。目だけを動かして床を見れば、私と彼のカーディガンが無雑作に落ちている。広がっていくそれは侵食。
彼の元まで届いて、塗りつぶしてしまえばいい。
「こんなに……」
折原の唇が私の肩辺りで動く。張り付いたワイシャツの上で踊るそれは私の肌にも刺激を与えた。
ぴくり、感じてしまったのを悟られないように私は黙って折原の背中に手を添える。
「何か言った?」
「ううん、何でもない」
そして抱きしめられたことにより密着した身体は、あの時と同じように見えて、違っていた。
塩素の香りなどしないし、そもそも濡れているのは私だけ。移すように、思い出させるように、私は彼の腰辺りに腕を巻きつける。
「折原、ワイシャツだと際立って細いよね」
「……俺も同じこと考えてた」
温め合う、という単語が頭をよぎった。自ら脱いだくせに、寒いからと抱きしめる見え見えの口実。
それでも身を寄せるのはきっと、愚かだと知りながら縋りついているだけだ。
「温もりが恋しいのは」
「お互い様だよ」
はかなく消えてしまいそうな愛しい存在を誰にも渡したくなくて。