深々と夜の帷も落ちて、もう既に日も変わろうかとしている真夜中。
虫干しの管理の行き届いた、護廷が誇る広大な書物庫の一角で、修兵は何冊もの本に埋もれる様にして時間を潰していた。
両腕一杯の本を抱えながらギシギシと軋んだ音を立てる梯子段を慎重に上り、天窓の真下、階下を見渡せるそこが修兵の特等席になっていた。
柵に背を凭れる様にして腰を下ろす。
明かり取りの大きな天窓からは月の光が微弱に届いている程度で、申し訳程度に灯る室内の懐古な照明だけでは決して本を読み耽るのに相応しい環境とは言えない。
それでも、修兵はこの時間帯にここへ来る事を気に入っていた。
昼間は執務に勤しんでいる為なかなか足を向ける時間を取れないと言う事もあるのだが、それを抜きにしても、廷内が殆ど静まり返っている今時分、こうして何に邪魔をされる事なく、沢山の好きな本に囲まれながら一人でゆったりとした時間を満喫する事が出来るこの時は修兵にとって欠かせないものになっていた。
天窓から覗く月をただ眺めているだけの時もあれば、ぼんやりと物思いに耽る事もある。
修兵は今晩もひっそりとした静けさに身を沈めながら、頁を開いた本の中へ意識を没頭させていった。









それからどれ程時間が経ったのか、すっかり月も傾いて天窓から届く光が細くなってしまっていた。
ここへ来たばかりの時よりも幾分か視界が悪い。
同じ姿勢でいたせいで凝り固まってしまった首筋に手を当ててぐぐっと伸びをしたその瞬間、ふっと、どこか覚えのある霊圧を感じて修兵は階下を見下ろした。
本の内容へ余りに熱中してしまっていて気付かなかったが、普段よりは抑えられているものの、今不意に感じた霊圧は確かにイヅルのものだ。
修兵は立ち上がり、柵に手を掛けながらぐるりと辺りを見渡す。
閲覧用の机がずらりと並ぶその一番隅、卓上の照明がぽつんと灯されたそこで、何やら一心に書き物をしているイヅルを見つけた。

(珍しいな…)

こんな時間にここへ誰かが来るなどと言う事は殆ど無いと言っていい。
何か急ぎの調べ物か、残務処理でもしているのだろうか。
少し迷った挙げ句、修兵はそのまま梯子段をゆっくりと降り始めた。
邪魔になるかとも思ったが、丁度集中力も切れてしまっていたし、このまま戻って床に就く様な気分でもない。
元より眠れぬ晩にここを訪れているのだ。
それに見つけた相手がイヅルならば話は別だ、ほんの少し、話し相手位にはなってくれるだろう。

「吉良」

薄明かりの中、ぼんやりと光彩を放つ金色の髪を目に留めながら声を掛ける。
数歩手前、こちらの呼び掛けに顔を上げたイヅルを見て修兵は思わず足を止めた。

「檜佐木さん、こんな時間に読書ですか?」

「お前こそ…って言うか、それ…」

僅かばかり目を見開きながら、普段とは違うイヅルの目元を指差す。
ちらりと、手元の書類から視線を上げたイヅルの顔には、細い銀縁の眼鏡が掛けられていた。
思うに今日初めて目にした眼鏡姿に、修兵はさも珍しいものを見たと言う風にじっとイヅルの顔を見つめる。

「お前、眼鏡なんか掛けてたんだな、目ぇ悪かったっけ…?」

「いえ…悪い訳じゃないんですけど、疲れたり長時間事務処理をする時なんかに」

そう言って、イヅルは無駄の無い神経質そうな手つきで眼鏡の縁を上げる。
見慣れぬその姿に未だにじぃっと視線を注ぐ修兵へ、ふっと口元を緩めて笑ってみせた。

「なかなか似合うでしょう…見惚れました?」

途端、修兵の頬がひくりと引き吊るものの、その頬は心なしか染まっている。

「何調子の良い事言ってやがんだ」

図星を突かれたそれへ誤魔化す様に返しながら、向かい側の椅子を引きイヅルの正面に腰掛ける。
ゆったりと頬杖を付きながらイヅルの前に並ぶ書類諸々へ視線を落とせば、現世派遣任務での資料だろか、紙面一杯にきっちりと書き込まれている几帳面過ぎる文字の羅列に思わず苦笑が漏れた。

「こんな薄暗い所で作業してると、ほんとに目ぇ悪くなんぞ」

「檜佐木さんこそ」

「いいんだよ俺は、元々視力いいから」

まるで年上とは思えない返しに薄く笑いながら、イヅルは中断していたそれへ再びさらさらと筆を走らていく。
その様子を暫く静かに眺めていた修兵がぼそりと口を開いた。

「なんか、変な感じだな…」

こんなに華奢な眼鏡一つで随分と印象が変わってしまう事に、不思議な感覚を覚える。
先程のイヅルの台詞を肯定する様で悔しいが、彼の細面で聡明な顔立ちに、成る程確かに良く似合っているのだ。
誂え品の様にしっくりとそこへ馴染んでいる。
橙色の灯りを映し込んだ、細い銀色の縁に囲われた薄い硝子越し、深い青磁色の目が理知的な色気を湛えている様で。

「檜佐木さんも、羽織姿なんて珍しいですね」

言われてみて、あぁ、と思い出した様に片方の袖を広げてみせた。
自室から申し訳程度に肩へ引っ掛けて来た濃紺の薄手の羽織だ。

「この時間少し冷えるからな、特に上は」

先程まで自分が本を読み耽っていた天窓の下を指差す。

「そんな事してて…、また風邪なんてひかないで下さいよ。檜佐木さん自分で気付かないんですから」

「大丈夫だっつの」

もうすっかり聞き慣れてしまったイヅルのお小言に気怠そうに返事をしながら、ちょいちょいと右手を差し出した。

「なぁ、それちょっと貸して」

「あぁ、良いですよ」

イヅルの顔から外されたそれを受け取った。
外して少し痕になった眉間の辺りを揉む仕草が、妙に様になっている。
手にした眼鏡を少し眺めた末、慣れぬ手つきで真似る様にして自分の顔へと掛けた。

途端、ぐにゃりと僅かに歪む辺りの視界。

「う、わ…結構度キツくねぇ?」

「そんな事ないですよ、檜佐木さんの目が良過ぎるんじゃないですか」

ブレる視界の焦点を合わせようと目を眇める修兵に、イヅルが小さく笑った。

「なんか、吉良がもう一人居るみてぇ…」

眼鏡のせいで派生した虚像を確かめる様にして伸ばされた修兵の手を、イヅルが遮る様に捕まえてしまう。
そのまま引き寄せた手の甲へ、柔らかく唇を落とした。

これではまるで…、

「どうです?僕が二人居る気分は…?」

「な……っ!!!」

真っ赤な顔をしながら絶句をして固まってしまった修兵に満足そうな笑みを向けた。

「おっ前…良くそんな気障な事を飄々と…っ」

羞恥に歪む顔を片方の掌で覆い隠したまま、精一杯の反論をする。

「似合いますよ、檜佐木さんも」

表情を隠してしまっている修兵の手を退けてするりと眼鏡を外すと、イヅルはそれを自分の顔へ掛け直した。
再びはっきりとした視界に映る眼鏡姿のイヅルをなんとも言えない表情で目に止めながら、ううと悔しそうに唸っている様が妙に可笑しい。

「笑ってんじゃねぇ…」

拗ねた様に目を背けてしまうその姿は、年上の男らしからぬもので。
それでも振り払われない右手に、イヅルはじんわりと満たされる様な何かを覚えた。

「もう片付きますから…これから来ませんか?」

―僕も眠れないんです。

少し強く引き寄せた手、僅か目を見開いた後小さく頷く仕草に口元が緩む。

「…しょうがねぇな」

決して素直とは言えない言葉を返しつつ、いつもよりも殊勝な態度を見せる己の先輩であり恋人でもある年上の男に、イヅルは堪らぬ愛しさを覚えながら再び柔らかな笑みを向けた。

(檜佐木さんの新たな弱点見つけた気分だなぁ…)









「そう言えば…なんで今まで俺の前で掛けなかったんだ?」


「…だって、せっかく檜佐木さんといるのに、裸眼じゃなきゃ勿体無いじゃないですか」


「…っ!!」


(聞かなきゃ良かった…!!)




−END−


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