春期休暇前の終業式を終えて、修兵は真っ先に帰り支度を済ませ講義室を後にした。
級友や後輩達からの誘いへ申し訳ないながらも丁重に断りを入れて、逸る気持ちを抑え霊術院の門を潜り抜ける。
それから修兵は一目散に目的の場所へ駆けた。
風と共にはらはらと舞う桜の花弁を肩で切りながら、息を弾ませて走るその表情はこの上なく晴れやかだ。

式の前、担任の講師から労いの言葉と共に告げられた、

"筆頭として最上級生へ進級出来る上、卒院後の護廷入隊の確定"。

院に居る誰よりも、真っ先に報告をして、挨拶をして感謝の気持ちを伝えて、祝って欲しい人達がいる。

(拳西さん・・・!)

誰よりも一番に報告をしたいその人の名を胸の中で呼びながら駆ける。
それに今日はもう一つ特別な事があるのだ。
その報せを受けた時は、自分の事以上に嬉しかったのを覚えている。
今日がその日だ。
二つ同時に訪れた『特別』に頬を緩ませながら、目的の場所へ辿り着いた修兵は、門前で大きく深呼吸をしてすっかりと上がってしまった息を必死で整えた。







― 願わくは胡蝶の契り ―







「失礼します」

「檜佐木君か、入りなさい」

雨乾堂の障子戸越しに名を告げたその部屋の中から、浮竹の穏和な声が届く。
修兵は膝を付いたまま両手でそっと障子を開けると、目に映る光景に息を飲んだ。

「わ・・・」

思わずと言った風で短く感嘆の息を吐く。

上座に座っている浮竹が常以上に柔和な笑みを浮かべてこちらを見ていた。
今日は随分と体調が良いのだろう、床も上げられていていつもよりも更に部屋が整然とされている。
向かって左手に拳西が腰を下ろし、それへ向かい合う様にして右手側に海燕と、今日婚儀を終えたばかりの都が並んで座っている。

戸を開けてすぐ、修兵は都の姿を目に留めて息を飲んだのだ。

「おい、修兵、早く入ってそこ閉めろ」

ほぅ、と惚けた様な吐息を漏らして固まっていた修兵は、拳西から声を掛けられ慌てて膝を進め障子戸を閉めた。
そうしてその場で畳に手を付き、ぺこりと一つ頭を下げる。
諸々の報告に続き感謝の意を述べれば、全員から告げられる祝福の言葉に修兵の胸が熱くなる。
促されて拳西の隣へ座れば、横から伸びて来た大きな手に思い切り頭を撫でられて目を細めた。

「今日は祝い事続きだな、良い日だ」

さも嬉しさを隠せんとばかりに浮竹が言う。

「はい。海燕さん、都さん、ご結婚おめでとうございます」

「おう、ありがとな!!お前もちょっとぐらい覗きに来りゃあ良かったのに、俺達の祝言!」

堅苦しい儀を終えた反動か、すっかり足を崩している海燕は茶を啜りながら修兵をびしっと指差した。

「無理を言うな海燕、檜佐木君は大事な進級式と終業式があるんだ」

「そうですよ、海燕さん。それに、出席させて頂きたい気持ちは山々でしたけど、一院生が護廷の副隊長の祝言に列席するだなんて出来ません」

「かぁーっ堅い!相変わらずお前は堅い!六車隊長と一緒に居てなんでそんな真面目に育ったかね・・・」

「おい、『俺と居るから真面目』なんだよ」

心外な所で名前を出されて拳西が反論をする。

「海燕、いいじゃない。だからここに修ちゃん呼んだんだもの、ねぇ?」

都はそう言って海燕を宥めながら、修兵へにこりと視線を寄越す。
それを受けた修兵の頬がほんのりと赤く染まった。
恐らく今日祝言で纏っていた花嫁衣装なのだろう。
白と淡い桃色の大きな牡丹、胡蝶蘭や藤など花々の豪華な刺繍が施された黒引きの振袖に、鮮やかな赤の抱え帯と総刺繍の金地の丸帯、懐剣に箱迫。
常から清楚で凛とした美しさを持つ都だが、今日の装いは一段とそれが映えるものになっていた。
普段あまり施すことのない薄付きの白粉や桜の花弁の様な唇に引かれた紅もそうだが、何より幸せそうに微笑むその和やかな表情がより一層彼女の美しさを引き出していた。

「都さん、凄く綺麗…」

「ありがとう」

「だろ!?どうしても修兵に見せるっつってこのままで待ってたんだぜ?打掛に角隠しも凄ぇ似合ってたけどな!」

「ちょっと海燕」

手放しで自分の妻を誉める海燕に、頬を染めた都がその脇腹を突付いた。
いかにも幸せそうに微笑み合う二人を前にして、修兵の胸中もじんわりと温かくなっていく。
しかしそれと同時に、今まであまり覚えたことのない感情が胸のずっと奥の方でチリチリとくすぶっているのを感じていた。

(なんだ…コレ…)

その正体を探ろうと、修兵はふと目を伏せて口を噤んだ。
周囲にはほぼ気付かれる事のない程の些細な仕草だったが、そんな修兵へ助け船を出す様に都が明るい声を上げる。

「隊長、もう日が暮れますよ?」

「あぁ、そうだな。隊舎の広間に食事の席を用意してあるんだ。檜佐木君も来るといい、皆で一緒にお祝いしよう」

「あ…はい、ありがとうございます」

そう言って立ち上がる浮竹や海燕達の後を追おうとした修兵を、都が引き止めた。

「そうそう、修ちゃんに渡したいものがあるの。すぐに行くから先に行ってて?」

海燕にそう伝えながら、修兵を手招く。
修兵は小さく首を傾げながら、ちらりと拳西の方を目で伺った。
拳西は軽く肩を竦ませて了承の意を伝えると、海燕を促して広間の方へ足を向ける。

「先に行ってる」

「早く来いよー?俺ら一応主役だかんなー」

三人が去ってすっかり静かになった部屋で、都は修兵を自分のすぐ目の前へ座らせた。
拳西に引き取られた幼い頃からずっと、兄の様である海燕と共に、姉か時にはそれ以上の母の様な包容力で以て修兵の事を見守って来てくれていたのだ。
今ではすっかり身近に感じていた存在だったが、結婚とはこんなにも女性を変えてしまうものなのだろうか。
より一段と艶やかさを増した都に、修兵は色々な感情が相俟って落ち着かない思いで居た。
呼び止めておきながらこちらをにこにこと眺めるだけで、一向に何を告げるわけでもない都に修兵は困惑する。

「あの…都さ」

躊躇いがちに声を掛けた修兵の口元へ、都の白く繊細な指先が当てられる。
静かに言葉を遮られた修兵はびくりと肩を竦ませて固まった。

「修ちゃん、また難しい事考えてる顔してるわよ」

「え、いや…そんなこと…」

「あるでしょう?」

そっと下ろされた都の指先を目で追いながら、修兵は視線を落とす。
もう分かっていた筈だったのに、都が人一倍周囲の人の心の機微に敏感な事も、それを掬い上げるのがとても上手な事も、幼い頃から修兵の事なら、拳西と同じ位なんでもお見通しだと言う事も。
だからいつだってなんだって、大抵本人に告げられない様な拳西に関する相談事は都に聞いて貰っていた程だ。
しかし、話してみてと言われた所で、今日のこれは自分でもあまり良く分からないのだ。

(違う、かな…)

分からないと言うよりは寧ろ、薄ぼんやりとした靄の奥で揺れているその不安定な感情を、あまり表へと露呈させたくない思いがあるような気がする。
それに、こんな日にそんな一個人的な、決して陽では無い感情を都に告げる事が相応しい事だとは思えない。
それでも、今までずっとこんな類の気持ちの靄を払う切欠を与えてくれていたのは都なのだ。
修兵は一つゆっくりと息を吐いて、浅葱色の袴を見つめながら訥々と言葉を零していった。

「ちょっと…羨ましいなって、思いました…」

綺麗な花嫁衣装を身に纏い、皆に盛大に祝われて、夫婦の儀を結んで、皆の前で一身に夫の愛情を受け入れる事が出来る、そこに在るのは、誰の目から見ても確かな夫婦の絆で。
どれをとっても自分には当てはまらない様なそれらに、ほんの一瞬でも羨望の感情を抱いてしまった。
分かってはいるのだ、今では心身共に拳西と通じ合えているだけでこの上ない幸せを与えられているのだと言う事は。
自分の立場を差し置いてそれ以上を望むだなんてただの贅沢に過ぎない。
我儘、なのだと思う、きっとこんな感情は酷く稚拙で、持て余せば持て余す程、それだけ拳西を困らせてしまうのでないだろうか。

「ごめんなさい…こんなおめでたい日にこんな話…」

一粒一粒零す様に話し終えた修兵に、都は柔らかな表情を崩す事無く笑いかけた。
申し訳無さそうに俯いている修兵の頭を緩く撫でて、顔を上げさせる。

「ねぇ、修ちゃん。海燕と私の間に夫婦の絆があるって言うのなら、修ちゃんと六車隊長の間にだって二人にしかない絆があるのよ?」

修兵は情けない顔で数秒目をしばたかせた後、小さく頷いた。

「それに、そう望む事は我儘でも迷惑でもなんでもない、好きなんだもの、当たり前の事よ?あの人だって、きっとそんな修ちゃんの気持ちをきちんと受け入れて、嬉しく思ってるわ。だって修ちゃん、愛されてるんだもの」

諭す様な都の言葉に、修兵はかぁっと顔中へ血を昇らせてしまう。
それと同時に、先程まで胸の奥で蟠っていたものが、すっと霧散して行く様な気がした。

(なんかいつも…こんな感じだな…)

改めて大人の女性の偉大さを思い知りながら、修兵はお礼を述べた。

「そうそう、修ちゃんにと思って…」

不意に、都が箱迫の隙間から一つの貝殻を取り出して修兵の掌の上へ乗せた。
黒漆で丁寧に磨かれた表面に、都が纏っている着物にもある様な胡蝶蘭の花を描いた蒔絵がとても綺麗に施された二枚貝だ。
かちりと、閉じられているそれを開いた中から、鮮やかな紅が顔を覗かせた。
聞けば、今日都が使っていた物と同じ紅差しだと言う。

「男の子にあげるのもおかしいかも知れないけれど」

都は困った様に笑いながら、それでも修兵の顔を思い浮かべたらこれしか思いつかなかったのだと告げた。

「縁起物だから、お守りにもなるかしらと思って」

昔から紅には、男性が意中の相手の想いを繋ぎ止めておく為のまじない事に使われた云われもあるのだそうだ。

「なんだか色々…ありがとうございます、都さん」

「いいえ、そろそろ行きましょうか?海燕辺りが呼びに来ちゃいそうだから」

「そうですね」

そう言って修兵は大事そうに貝の紅差しを懐へ納めながら立ち上がると、都と連れ立って雨乾堂を後にした。




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