− 終の依り代 −




黒漆を塗り固めた様な闇に白金の月が浮かぶ。
闇夜の星灯りを全て食い潰して煌々と照る満月は、開け放たれた障子戸越しの四角い景色には不釣り合いな程誇示的に鎮座していた。
私邸の庭に施された申し訳程度の溜池に映る月が波紋に滲み微かにさざめいている様は、静謐な景色の中での唯一の動だ。
障子の枠に背を凭れていた黒い塊が緩慢に揺れ、月明りに照らされた右の頬が青白く輪郭を現す。
黒く垂れ込めた闇とのなだらかな境界線に目を奪われた。
月の光を吸収して暗紫を紫紺にした右目を忙しなく瞬かせ、こちらに焦点を合わせようとする。
阿近は縁側に座り込む修兵の傍へ寄り、ぶれる視界に焦れた末それを擦ろうとする前にその手を掴んで制止した。


「コラ、擦んな」


動きを止めた修兵の代わりに、凪いだ風が庭の隅に頭を垂れる枯芙蓉の葉をかさかさと鳴らした。


「痛むのか?」

「いや、…平気」

「嘘吐け」


へらりと困った様な笑みを見せたその手元を覗き込めば、立てた膝元に阿近の愛用している薄切子の銚子と猪口が置かれていた。

(コイツ、調子悪いってのに酒なんか呑んでやがったな…)

取り上げようとしてのそりと伸ばした阿近の右手に、すっぽりと空の猪口が収められる。
手渡した修兵が自分の猪口をくいと片手で持ち上げ視線だけで催促をする。
左の目が己の隣へと強く誘っていた。
逡巡した後一つ嘆息し、羽織っていた白衣を脱いで寝巻代わりにしている薄い着流し姿の肩に掛けてやる、菊月半ばと言えども夜が深まればもう大分に冷えるのだ。
隣に腰を下ろし立てた片膝の上に右腕を乗せ、ぞんざいに猪口を差し出しながら酌を促した。
阿近の猪口をゆっくりと酒で満たしながら、修兵は肩に掛けられた白衣の前をきゅっと掴んで合わせ、心地好く体温の残ったそれに目元を綻ばせる。


「痛ぇなら大人しくしてろよ」


曖昧に笑い返す顔を見遣りながら一口流し込んだ、普段の修兵ならば余り口にしない様な甘味の強い和酒だ。
修兵の手元に置かれた酒を確かめようと視線をやる。
中身が半量程になった銚子と、彼のもの以外に満たされた猪口が二つ添う様にして並べられていた。

(嗚呼、今日は…)

現世の人間よりも遥かに長い歳月を塗り潰していく死神にとって、月日の経過などと言うものは一見すればただ只管に坦々たるものでしかない。
日常で失われがちな年月の感覚を不意に引き戻させる条件にしては、それらの記憶は余りに皮肉めいていて残酷にこびり付いている。

人間は日々忘却する生き物だ、脳が自己防衛本能として『忘れる』という機能を兼ね備えている。
悔恨、悲壮、傷心、苦痛、あらゆる全ての負を在りのまま蓄積させていれば、薄れない罪悪の重圧に耐える事を不可能とした脳にいずれ崩壊を招き兼ねないからだ。
それは死神とて同様で、尸魂界での生を終え輪廻の輪へ魂を帰すにはそれが然とした摂理であって、もとより魂が兼ね備えている本能のようなものだった。


風向きが変わり拉げた芙蓉の葉がひらりと一枚堕ちる。
つんと鼻を刺す香りが弱く漂い修兵の横顔の向こうで紫煙が舞った。
控えめな硝子の灰皿に日頃多くは嗜む事の無い煙草が一本横たわり、献花をする様に白花の曼珠沙華が一輪置かれている。
花に気付いた阿近の気配を覚り、修兵は細く伸びる白い花弁に触れながら口を開いた。


「…今日、行って来たんですよ」

「ああ…」


抜ける様に青く澄み渡った空の下で、白日に照らされた丘の上、果てた者達の小さな墓碑が並んでいる。

並べられた二つの墓碑を護るかの様に無数の白い花が穏やかに咲き誇っているのを、長い歳月を経て、修兵は今日初めて目にした。


「薄情ですよね」

「そんな事ぁねぇよ…」


祈れども願えども、亡くした者は戻らない。
潰えて事切れるその瞬間を目の当たりにしてしまった過去は塗り替える事など出来ず、思い知らされるかの様に幾度となく脳裏を過り続ける。
どれだけの後悔に駆られようが、罪悪に身を沈めようが、どれだけ祈り縋ろうがこの手が取り戻す事などもう二度と出来はしない。
年月の流れが摩耗させ薄れさせて行く事にも身を任せる事が出来ない。
今も右目を苛む鈍い痛みと共にそこに留まり続けているからだ。

止める事も、救う事も出来なかった。

あの日、心臓を貫かれたのが自分ならば良かった、薙ぎ払われ胴を裂かれたのが自分ならば良かった、飛び散る血飛沫も鼓動を止めた体も全て全て、自分のものならば良かった。
何故自分は生きている、どうして己だけが永らえた、生を繋げた今に残されたのは止まらぬ慟哭と罪悪とそこに留まり続ける弱い己に対する失望、そして途方も無い程の果てない時間だった。
目を逸らすふりをしていた、押し潰されそうになる思いに蓋をしながら生かされた者に圧し掛かる沢山の羨望と期待と義務にこの一身を捧げながらそれに言い訳を、逃げ道を見出す様に。
そうして、枷を作り吐き出されなかった言葉の群れは腐り落ち、自ら静かに殺すのだ。
そうしなければ、与えられたこの歳月には耐えられる筈も無かった。

それなのに、擦り込まれ染み付いて離れない、離せない筈の赤い残像が、咲き群れる無数の花を見て白に塗り替えられていく様な錯覚を覚えてしまった。

凛とした艶を保っている白い花弁が数刻を経て傾いた月明りを吸収する、青白く風に揺れるその様は魂の依り代を思わせた。

花に伸ばしていた手を止めた修兵は、引き戻したその手を彷徨わせる。
猪口に添えられる寸で阿近がそれを己の死覇装へ引き寄せた。
緩く併せられているその胸元を幾分か細くなり骨張った白い指が弱々しく掴む。



『ごめんな・・・』



小高い丘の上でほんの一言発せられた言葉は、無色の色彩に彩られた墓碑に弱く届き微か風に流されただけだった。

たったそれだけを伝える為に重ね過ぎた数多の年月は、後悔を捨て誓いに触れるのには十分な時間を与えてくれた筈だった。
己の生へ対する絶望と躊躇いを許さずに命を繋げてくれたこの鬼に、もう後悔は繰り返さないと誓った。

猪口を空にした阿近の右手が眼前に伸ばされ、茫洋と視線を彷徨わせていた修兵は反射的に瞼を閉じる。
裂傷の走る右の薄い瞼を押され皮膚越しに奥を撫でられる感触と同時に走る鈍い痛みに、失った筈の眼球が震えた気がした。


「大丈夫だ」


『幻視痛』だと、阿近は以前そう言っていた。

消さないでくれと願い留めておいた三筋の傷跡を、阿近は時折ある種まじないでも掛けるかの様に撫で擦る。
その一筋ずつ、抉り込んで浸み付いた悔恨を神経質な節くれ立った指で削ぎ落していく様に。


「俺、九番隊の副隊長になるんです」

「そうか」

「だから…、」


喉が震える、せり上がろうとする一切は幾度も幾年も出る潜むを繰り返し塵になり果てながら風化などはしなかった。
ただ、白罌粟の彫り込まれた義務の証を手に佇んだあの丘は、思うより遥かに静粛で暖かだった。


「…だから、お前はそれでいい」


己の舌が取り零した言葉の端を掬い上げて覆う様に穏やかな声を発した目の前の鬼は、同じだけの暖かさで造物の暗紫を覗き込んでいる。



冷たい指先の感触を甘受する瞼の裏で、報われず量産されていった言葉の亡骸の上を、白い花弁が覆い隠す様に散り積もっていく幻影を見た。










− 了 −





←back


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -