− 連理の呼び声 −



遠く諸寺の鐘の音が奉行所へ届き始める頃には、会津から贈られて来た樽酒は目を瞠る速さで飲み干されて行った。
あともうほんの半刻程も経てば底をついてしまうだろう。
銃創の療養目的で下坂をする直前近藤が軍資金と共に預けて行った灘の銘酒も、隊士達にかかれば銘柄の良し悪しなどあってないようなものだった。
要は飲めさえすればなんでも良いのだ。
厳かに鳴り続ける除夜の鐘の音とは裏腹に酒宴は勢いを増し、一つ、また一つ、尾を引きながら流れる音色が響く中、どこからともなく一人の隊士が戦の鐘だと息巻いた。
それに調子を付けた永倉と原田が、煽り立てる様に声を上げ場をどっと湧き立たせる。


「ほれ鳴った、戊辰の年だねぇ」

「おいおめぇら、戊辰の陣だ!」


威勢良く声を張り上げた原田は、既に袷の役割を成していない着物から覗いた固い腹に走る自慢の一文字傷をぴしゃりと叩いて、持ち上げた大樽から直に残りの酒を煽ってしまった。
軽々と転がされた空の大樽を尻目に、近藤の置き土産の封も既に切られて隊士達の胃袋へと流し込まれて消えて行く。
然して飲む気の無い杯を片手に、戦を目前にした晦日だからとて少し気前良く酒を出し過ぎたかと嘆息した。
注がれたままとうに温くなってしまった酒を杯の中で揺らしながら、騒ぎに紛れて一つひたりと自分に向けられている意識を、土方は始めからずっと感じている。

不躾にねめつけるのでもなく、何かを窺うのでもない、淡々と静かにこちらの挙動を追っているだけの気配だ。

常日頃受ける事の多い殺気と畏敬以外の、ある種特有な含みを持つその気配を己に向ける者などあの男一人くらいのものだった。

それを纏いながら、土方は勢いを増す酒宴の座を立った。
元より賑やか過ぎる酒を好まぬ性質であるし、若い隊士達は自分が席を外していた方が気兼ねなく飲めるだろう。
余りに騒ぎの度を超して貰っては困るが、そこは島田か井上辺りがどうとでも嗜めてくれる筈だ。

後ろ手ですらりと広間の障子戸を閉める直前に半身振り返ったその先で、飄々たる風貌で取巻きの隊士達と酒を酌み交わしていた男の視線と搗ち合った。









薄い足袋の裏から寒気が背筋へと這い上がる。
私室までの廊下を歩いて来ただけで随分と手足が冷えてしまった。
懐手を解いて内へ足を踏み入れれば、そこには既に床が整えてあり火を入れられた箱火鉢が大分に部屋を暖めてくれていた。
自分が早々に部屋へ戻る事を予想していたのだろう、まめまめしく準備を整える鉄之助の姿が想像されて土方は一人ほんの微かに緩く息を吐いた。



鐘の音も半分程鳴り終えた時分、古びた火鉢の前へ座す土方の背後で静かに戸を引く音がする。


「・・・副長室だぞ、声くらい掛けたらどうだ」

「良い満月ですよ、旦那」


形式だけのお咎めをさらりと流して斎藤は戸の片側を勢い良く開けてしまうと、そこに背を凭れ煌々と月の照る空を濡れ縁から覗き上げた。


「冷える、さっさと入ってそこを閉めろ」


振り向きもしないままぴしゃりと言い放つ土方に、ここで機嫌を損ねては入れて貰えないと判断した斎藤は大人しく障子襖を閉めた。

半ば忍び込んだつもりでいた斎藤は、中の様子を目に入れて些か肩を透かされる。

夜着にでも着替えているかと期待をしていたが、斎藤の邪な心の内とは裏腹に、目の前の土方は広間に居た時と変わらぬ五つ紋の黒羽二重に糊の効いた仙台平の縞袴をきっちりと身に纏った姿のままだった。
外から漏れ入る月明りと文机の横へ据え置かれている行燈の灯りが、部屋の中央に静かに座している土方の首元から肩の線を浮かび上がらせている。


「酒宴はもういいんですか?」


言いながら姿勢良く座る土方の前へ回り込み、火鉢を挟んで腰を下ろす。
酔えば指揮に係わると言う大真面目な返答を受けながら、何をしているのかと思えば、答え通りの大真面目な顔をして土方は餅を焼いていた。
月に浮かび上がる後ろ姿に同調するかの様な室内を包む凛とした空気と目前の光景との落差に、狐に抓まれた思いで斎藤は土方の顔をまじまじと見つめる。
無駄な所作無く炭を突き淡々と餅を炙っているその顔は何故か憮然としていて、思わず吹き出してしまいそうになるのを斎藤は必死の思いで押し留めた。


「大分静かになりましたよ」

「そうか」


土方が座を立ち四半時も経たぬ頃から、酒も底をつき始めて宴を切り上げた隊士達はぱらぱらと散り、皆各々持ち場に戻り始めたと報告をする。
それへ抑揚の無い返事をしながら、土方は一つ餅を返した。

旗挙当初には二百を超え尚も膨れていた隊士の数も、今度の戦を前にして今は六十名余りにまで減ってしまっている。
この師走半ば、不動堂村の屯所から伏見奉行所へ陣営を移した際流れの様に特例で出された外泊許可で、当時残留していた隊士の内半数は戻らなかった。
屯所を後にした者は、各々妾宅や妻子の元へと赴き、生きて戻れるとも知れぬ出陣を前にした別れを惜しみに向かった筈だ。
己の身がいつ果てるとも分からぬ覚悟を据えた中で契った女と、ましてその女との間に儲けた子など、その温か味に触れてしまえば再び背を向けて戦へ赴く気力がどれだけ残ろうものか。
そうと知りながら敢えて出した特例だ、今更この状況下で離反した者達を深追いし以前の様に処罰する時間も無ければ土方自身にその気も無い。
今は先の戦に命を賭せると言う気概のある者達だけが残れば良いのだ。

しかし頭数が減ったとは言え血気盛んな男達ばかり六十余名も寄って集って酒宴を開けば、場はそれなりのものになる。
つい先程まで聞いていた派手な騒ぎの名残が、両者の耳の奥で未だぼんやりと響いていた。
一つ一つ数を重ねていく鐘の音に、こちらを気にする風でもなく淡々と火鉢に相対し餅を焼いている土方の衣擦れの音が混じる。
斎藤は暫くその挙動を静かに眺めていたが、一向に視線すら上げない土方に焦れて少し意地の悪い問い掛けでもしてみようかと、ちょいちょいと右手の小指を顔の横で動かして口を開いた。


「あんたは、良かったんですかい?」


察しの良過ぎる性分である土方にはその所作で十分過ぎる程伝わったのか、僅かな思案の末に少し怒気を含んだ視線が斎藤へ投げられた。
それを受けた瞬間斎藤の胸の内に期待以上の満足感が沸き上がる。
日頃つっけんどんな態度を示してくる事の多い土方の執心や嫉妬心が存外に強い事を見抜いている斎藤は、時折子供の様にそれをこうして性悪く確かめたくなるのだ。


「・・・お前がそれを言うのか」

「冗談ですよ、そんなに膨れちゃあ餅みたいになっちまいますぜ」

「揶揄うんじゃねえ」


本当に膨らんでしまいそうな土方の白い頬と目の前で突かれている餅とを見比べて、今度こそ斎藤は吹き出してしまいそうになる顔を誤魔化しきれずに横へと逸らす。
笑いを噛み殺して小刻みに上下する斎藤の肩口を土方はむすりと睨み付けながら加減良く焼けた餅を摘み上げ、箱火鉢の引き出しから取り出した何やらで細工をすると手元の皿へ一つ乗せた。


同間隔で響いていた鐘の音が途切れる。


瞑目して次が届かない事を確かめた斎藤が笑いを奥へ押し込めて一つ咳払いをすると、徐に居ずまいを正し膝の前へ両手を付いた。


「副長、御慶申し入れます」

「ああ、明けたのか」


突然新年の挨拶と共に頭を下げた斎藤のその頭上へ、ほんの今時分顕にしていた憮然さとは裏腹に柔らかな微笑を含ませた土方の声が降って来る。
顔を上げた斎藤の目の前へ、ずいと餅の乗った皿が差し出された。


「一、お前幾つになった」


唐突な土方の問いにほんの一寸の間その主旨を汲み取り損ねた後、二十四ですよと答えながら顔の前に差し出された皿を思わず両手で受け取ってしまう。


「そうか、それにしちゃあちょっとばかし老けていやがるな」


斎藤より九つも年嵩の己を棚に上げ当人を前にしてすっぱりと失礼な評価を下す土方に、常の調子で反撃に出ようとした斎藤ははたとして動きを止めた。
じっとこちらを見据える斎藤を余所に、皿を渡し終えた土方はまるで一仕事を終えた風で満足げに片方の口角を吊り上げて懐に両の手を収めてしまった。

年が明けてすぐに土方は幾つに”なった”のかと問い掛けた。
それは今この時分に斎藤が一つ年を重ねた事を分かっている上で尋ねたのだ。

見れば手渡された皿の上には、湯に通されて豪快にきな粉をまぶされただけの焼き餅が乗っている。
“餅には醤油だ”と決め込んでいる土方は到底好まない、どちらかと言えばこれは斎藤の好物だ。

途端脳天から爪の先までを走り抜けた強烈なまでの自惚れに、斎藤はとうとう御しきれず土方の顔を穴が開く程に凝視したまま盛大に破顔した。


「土方さん、これで安倍川のつもりですかい?」

「うるせぇ、直々に炙ってやったんだ、有り難く食いやがれ」


あからさまに緩みきった斎藤の顔と失敬な言葉を受けて、不敵に上がっていた土方の口角が再び下がり代わりに片眉が吊り上がる。
せっかくの皿を今にも取り上げにかかりそうな形相の土方に、軽口を引っ込めた斎藤は肩を竦ませてぽいと豪快に口の中へ餅を放り込む。
つれない見てくれに反して品の良い甘さを纏った土方手製の餅をゆっくりと咀嚼した。


規則的に響いていた鐘の音が治まってしまうと、今は先の宴の騒ぎを引き摺っている隊士達が未だざわついている声音や物音が遠く耳に流れ込んでくる。
明日か、もしくは数刻後にか、御香宮に布陣する薩摩からの砲弾がいつ降るとも知れぬ状況下で、陣営内の酒宴然り焼餅を食らう己然り、到底似つかわしくない構えの態に、腑へ据えられた士気は変わらぬまでも斎藤はどこか毒気を抜かれてしまいそうな妙な心持だった。


「豪気だねぇ」

「こんなものさ、それに」


お前に言われたくはねぇなと零す土方が斎藤の装いを見て呆れた様な表情を浮かべる。

戦目前とは思えない程の軽装だ、この男はいつだってそうだ、何事をも大袈裟に構える事がない、良くも悪くもそういう男だった。


「斎藤」


不意に名を呼んだ土方の声が再び室内に凛とした空気を呼び戻す。

顔を上げた斎藤の目に映ったのは、先の様相とはうって変わり新選組副長としての表情を貼り付けた土方の顔だった。


「お前には随分と面倒な仕事ばかり任せたな」

「やめてくださいよ、なんです」


面倒だと、思った事など一度として無かった。
元々会津からの見張番として入隊した謂わば間諜のようなものだ、その自分を下に置き果ては己の抱える劣情までをも受け入れてくれたこの男に、心血だけでなくこの命すら捧げ尽くすと決めたのだ。

そのような感情を抱いた事など今の一度として欠片も無い。

この人が斬れと言うのなら何人でも斬り伏せよう。
事実同志然り不逞浪士然りこれまでどれだけの血を刀に吸わせて来たか知れない。
自ずから進んで闇へ陰へと身を徹するこの人へ降る冷たく赤黒い雨を出来得る限り防ぐ事の出来る様に、その一心で斎藤は自ら刃の務めを果たしてきた。

土方の一声で、己の命すら今ここで斬り捨てられる覚悟を持っている。

そこまで思案しながら斎藤はふと眉根を寄せた、こちらを見据える土方の目には戦への高揚と仄暗い静謐が同居している。


「…何を言うおつもりですか?」

「斎藤、もし俺が先に」

「まだ、」


−早いんじゃないですかい。

言葉を遮られた土方は微塵も表情を動かす事なく斎藤を見据えている。
斎藤が先を聞かないであろう事は予測出来ていた。
それでも言わずにはいられぬものが喉奥で燻っている。
土方は霧散した言葉を意志としてその視線へ乗せた。
止めた言葉の代わりとして斎藤はそれを真っ直ぐに受け入れる。


「今は、まだそれを言うべき時じゃありませんよ」


−言うべき時ではない。

それは建て前でしかない事は自覚していた、この人が何れはそれを己に伝えるであろう事は十分に肌身で感じ取っていた筈だ。
土方が託さんとしていることを果たすことが出来る保証は無いのではないか、それが常に葛藤として斎藤の意識の底でいつも浮いては沈んでいるものだった。
新選組か、会津か、最後はどちらかを選択しなければならない。
命を捧げると決めた身で尚矛盾を抱えて苦心している斎藤の胸中を土方は恐らくとうの昔に気付いている。
この手を取り上げてくれた土方に報い返せるものを未だ見付けることが出来ないのだ、目の前に座すこの人よりも遥かに柔軟性を欠いた己の信条とも言えるべき自尊心をこの時ばかりは疎ましくさえ思った。
土方は今それさえも取り払い一切の裏も打算も持たずただ純粋に斎藤への切なる意志を吐露している、斎藤にはそれが堪らないのだ。
会津公に報い藩へ恩義を返す事とこの命が潰えるまで土方の傍に付き従う事と、強欲にそのどちらをも己の命運なのだと尚揺れている自分が滑稽でならない。
矛盾を承知の上で真っ直ぐに射抜いた土方の目に、先よりもほんの微か温かな光が宿っていた。

「はじめ」

名を呼んだ土方の声が互いの間に流れる空気に色を戻していく、穏やかに斎藤の耳へ届いたそれは随分と温かいものだった。

変わらず静かに凪いでいる土方の目に火鉢の残り火がゆらゆらと揺れ、困惑の表情を浮かべた己の顔が映り込んでいるのを斎藤はじっと見つめていた。

「お前が、生まれて来てくれて良かったと思っている。
…俺はお前に随分と救われてここまで来られたんだ」

「ありがとう」

途端、胸の底から込み上げた何もかもが熱い奔流と成り斎藤の双眸を押し上げて堪らずに目を閉じた。

−嗚呼、此の人は、−

自分を救い上げてくれたのは貴方じゃないか、それを伝えなければならないのは寧ろ己なのだと、声を発すれば零れてしまいそうになるそれに耐え兼ねて斎藤はきつく唇を引き結ぶ。
いつも先回りだ、何もかもこの人は、いつか肩を並べられる日をと願わない事は無かった。
けれど斎藤はこの男の背後を護る事を許されている、委ねられ先を歩む細い背を見る度に沸き上がるのは身に余る程の優越と確固たる意志だ。
俺はこの人に逢う為に生まれて来たのだと、斎藤は一切の躊躇いもなくそう信じている。

斎藤は震える両の瞼を誤魔化す様に強く覆っていた右手を外した。
ゆっくりとその手を伸ばし肩に一房垂れる土方の艶やかな黒髪に触れる、さらりとしたそれは簡単に斎藤の指先から逃げて行った。
一度触れれば堪らなかった、伏し目をして斎藤の指先に視線を落としていた土方の背後に回り込み、薄い肩が身じろぐ前にきつくその体を抱き込んでしまう。

「…っ、おい、はじめ」

「呼んで下さい」

斎藤の喉奥から思うよりも一層情けない声が漏れた。
掠れ切ったその声を耳元で受けた土方の体から強張りが解け、腹の前に回された斎藤の腕に緩く触れる。

「もう一度名を、呼んで下さい」

「…はじめ」

「もう一度、何度でも…何度でも呼んで下さい」

「はじめ、…はじめ」

既に体中の隅々までもが記憶している低く心地の良い声が求めるだけ己の名を呟いている。
その一語一語を漏らす事無く斎藤はこの耳に刻み付けた。
今まで幾度となく呼ばれた名だ、数多の血を浴びてまでも全てをこの人の為に賭すと決めた男の名前だ。
繰り返される音の中で斎藤は少しずつ自分の胸の内が凪いで行くことに気が付いていた。

生涯この名を、この人へ捧げるのだと。

抗えぬ袂別か、死別なのか、いつどんな形で二人が分かたれるのか予測など出来はしない、それでも来るであろういつかは互いの間で鎮座をして待ち構えている。
耐え得ぬ予感の中で唯一出来る己の最後の覚悟と想いだった。

出逢ってから死ぬまで、”斎藤 一”はこの土方歳三のものだと。

斎藤よりも幾分か体温の低い土方の首筋へ、己の熱をうつし込む様に顔を埋めて何度も口付ける。
むず痒そうに微か身を捩りながらもなお名を呼び続ける土方が斎藤は耐え難い程に愛おしい。

抱え込む腕の力を緩めぬまま、その赤く染まる耳朶へ斎藤は土方へと返す感謝の意をこれ以上ない程の想いと覚悟を乗せて静かに口にした。






斎藤 一

後 山口 二郎 へ改名

会津藩へ属し、その後転戦

その後〜晩年 藤田 五郎 へ改名 享年七十二才

明治の時流を生き抜き、大正の没年まで、耳の奥底で己の名を呼び続ける彼の人の声を忘れたことはない






− 了 −





←back


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -