「あ゙ぁ゙ーきっつー…」
たっぷりと時間を要して坂の中腹まで上った所で、恋次がいかにも親父臭い声を上げてその足を止めた。
「おい、まだ半分だぞー」
「あ゙ーっ疲れた。いや、いいんスよここで」
「は?なんで?」
「今日の本当の目的地、此処っスから」
修兵に自転車を降りる様促しながら恋次が指差したのは、通りに面してこじんまりと佇んでいる一軒の民家だった。
それを見た修兵の脳裏に、少し前六番隊の三席から聞いた言葉が過る。
「お前…私邸持ったって…」
「え、なんで知ってんスか!?」
「三席から聞いて」
「えぇ!?あ!!クッソ口止めすんの忘れてた!」
いかにも恋次らしい失態を口にしながら頭を抱える。
「あーもう、まぁいいや。ほら先輩、入りましょうよ」
自転車を横に付けながら玄関の戸へ鍵を差し込む恋次の背後で、修兵は拗ねた様な声音を出した。
「なんで俺に黙ってたりなんかしたの、お前」
「先輩呼ぶ前にちゃんと全部準備しときたかったんですよ。…言っとくけど女なんか囲っちゃいませんから安心してください」
言われてドキリと修兵の心臓が跳ね上がる。
思わず返答に詰まってしまった修兵を、恋次は意地の悪い笑顔で振り返った。
「あんたの考えそうな事っスから」
かっと熱くなった顔を誤魔化す様に恋次のその顔を睨み付けながら、修兵は早く開けろと目で促した。
玄関の三和土を上がってすぐ左にある居間に入った途端、ばたりと恋次がそのデカい図体を投げ出した。
「かぁーっ足攣る!」
邪魔だなんだとようやく追い立てて奥まで押し込んで、そのまま屋内を案内されたり云々で気付けば数時間。
外から離れずどこかにくっついて来たのか、修兵は部屋に落ちていた数枚の花弁を指先で弄ぶ。
一枚でも十分に綺麗だけれど、昼間見たあの桜並木は何処か非日常的ですらあった。
陽の落ちた今でも、この目の裏にあの色が焼き付いている様な気さえする。
「…なぁ、後でまた散歩行かねぇ?」
「夜桜っスか?」
「あぁ」
「じゃあ…」
畳に倒れ込んでバテていた恋次が体を起こして、修兵の背中へ凭れ掛かる様に抱き着いて来た。
横から伸ばされた長い腕、目の前に翳される掌。
恋次の手の中にあるのは、見慣れた自分の私室の合い鍵だった。
「はいコレ」
「なんだよ…」
「返そうと思って。で、こっち持ってて下さいよ」
差し出された恋次のもう片方の掌を見れば、さっき恋次がこの家の鍵として持っていたものと同じ鍵が乗せられていた。
何を言い出すのかと振り返る。
「先輩、ここで一緒に暮らしませんか?」
−本当はずっと思ってたんスけどねぇ−
そう付け加えて。
「ここなら毎年いつでも一緒にあの桜見に行けるでしょう?…っつーのは建前で、先輩あの隊舎の離れにいちゃあ非番っつってもすぐ仕事しちまう、それじゃあいつまでも気なんか休まらねぇだろうし。それに、俺は出来得る限り一緒に居たいし、目の届く所にあんたをずっと置いておきたいんスよ。だから、毎日さ、帰って来てよ、この家に」
思わず答えに詰まる修兵としっかり視線を合わせながら続ける。
「一つ一つ、ゆっくりでも解いて行く自信はありますから」
恋仲として同性二人で居ると言う事のリスク。
それに勝手に負い目を感じて何時もどこか意識の隅にある自分が男である事への劣等感、予想のつかない様々な仮定を立てては時折それこそ勝手に落ち込んで、打ち消して、その繰り返し。
それらは今まで決してはっきりとは恋次にぶつけた事の無い不安。
「でもそれは、先輩が一緒じゃないと出来ませんから」
恋次の真摯な強い視線。
自分の中に蟠るそんなものは全て見透かされていて、いつだって恋次の言う根拠のない大丈夫は絶大な効力があって、それに全てを預けてしまう事に恐怖すら覚える程、その安心感は修兵の中に染み着いている。
恋次は自分がそれにすら不安を覚えている事すら解くと言った。
だからこそこの先も、此処から一緒に。
少しの沈黙。
恋次の掌にある鍵を受け取って、修兵はぎゅっと握った。
一つ頷いた修兵を見て、腰に回された恋次の腕に一層強く力が込められる。
一瞬息が詰まる程抱き締められて、ふと恋次が脱力したのを背中越しに感じた。
「良かった」
詰めていた息を吐き出す様な声が降ってくる。
「…おう」
「お帰りって言って下さいね」
「おう」
「俺も言うから」
「あぁ」
「毎朝起こして下さい」
「俺は嫁か」
「違うんスか」
「馬鹿め…」
そのまま首元に鼻先を埋められて、頬に触れる髪がくすぐったくて、修兵はやんわりと目を細めた。
「お前、俺のこと甘やかし過ぎじゃねぇの」
「これからもっとドロドロに甘やかしてやりますよ」
「…調子乗るぞ、馬鹿野郎」
「喜んで」
巻き付いていた腕が離れて、今度は肩を引かれて真正面に向き直される。
「今日から、よろしくお願いします!」
改まり過ぎだと、頭を下げる恋次に修兵は吹き出した。
「あ、待て、お前今日って言ったろ今」
「そう今日から、荷物は明日一緒に移せばいいじゃないっスか。先輩の部屋物少ないから早いだろ」
恐ろしい事を言い放つ。
どう抵抗しようとも、一度言い出したら聞かない恋次の性分を身を持って知っている修兵は、苦笑いを浮かべながら降参の意志を示して見せた。
宣言通りに決行された急な引っ越しはなんとか無事に終えて、恋次の私物しか置かれていなかった家に修兵の生活用品が加えられるのを、なんだか気恥ずかしい様な面持ちで眺めていた。
そんな修兵を横目に、恋次が寝室は一緒っスからなんて事を横で断言している。
まだ少し違和感はあるけれど、修兵は不思議と長年過ごして来た自分の部屋よりも居心地が良いかも知れないなどと言う事を思い始めていた。
開け放たれている通り沿いの窓から、今日も変わらず咲き誇っている桜の花弁が数枚舞い込んでいる。
「さてと…俺にとっちゃ今晩新婚初夜なんですけど、どっスか?」
「おまっ!なに言ってやがんだ、馬ー鹿」
なんだかんだで、恋次の表情はいつだって自分に伝染するのだ。
桜同様満開の笑みを自分へ向ける恋次を見ながら、麗らかな春の陽気はこの上なく身に毒なのかもしれないと、幾分も照れ臭さを覚えつつ修兵は穏やかな表情を目の前の男へ向けた。
−END−
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