その後、二人が連れ立って場所を移したのは、技局から少しの所にある阿近の私邸だ。
こじんまりとしていて古民家然とした風体だが、たまの長い睡眠を取る為だけに帰っている様なものなので、いささか勿体無いと修兵はここを訪れる度に思っている。

まだ陽が高い。

勝手知ったるなんとやら、奥へ進んだ修兵はこの家で一番陽当たりの良い縁側の一角へ大判の布を一枚敷いて腰を下ろした。
風呂敷包みを開けて道具一式を広げている修兵の背後から手を伸ばした阿近が、白い手拭いを取り上げてその肩へかけてやる。
風呂敷の上へ几帳面に並べられているのは、散髪用の細い鋏と剃刀、大きな手鏡に櫛と掃除用の刷毛が一本ずつ。

「随分しっかり揃えたな」

「まぁね、借り物もあるんだけど」

「俺でいいのか、人の髪なんざ切ったことねぇぞ」

「大丈夫ですよ、阿近さん器用だから。それに、阿近さんに切って貰うって決めてたんです。だから」

−お願いします。
そう言って、修兵は姿勢を正し庭側へ視線を向けた。
一式の中から櫛を取り上げた阿近は、全体を梳きながら柔らかな髪を後ろへ流してやる。
項を覆い隠して背に掛かりそうな程の長さにまで伸びた毛先に触れながら、躊躇いつついかにも神経質そうな手つきで慎重に鋏を入れて行った。




ぱさり、ぱさりと、修兵は白い布の上へ落とされていく自分の髪を一束手に掬い上げてぼんやりと眺めた。

「なんだ、今更止めるとか言うなよ」

「言いませんよ」

言いながらこちらを振り返りそうになる頭を、阿近はぐっと押さえて制止した。

「なんだか…、まだ実感が沸かないんです」

ぱさり、布の上へ髪を落としながら、修兵は遠くを見る様に酷く懐かし気な顔をした。

幼い子供達だけで肩を寄せ合って一日一日を生きていく事がやっとだった流魂街での荒んだ日々の中で、鮮烈な出会いをして、仰ぎ見た銀色に焦がれる程憧れて、形振り構わず突き進んでやっとの思いで霊術院へ入学した。
しかし時の流れと運命とは残酷なもので、ひたすらに目指していたあの人はもう瀞霊廷には存在しなかったけれど、それでもあの日見た男の残像を追いかけながら死に物狂いで駈け上がった。
いつしか筆頭と呼ばれる様になり、双肩へのし掛かる重みは想像を遙かに越えていて、大切なものを失って、絶望と挫折を味わって、それでもあの時の事が無ければ今こうして阿近と出会っていなかったのだ。
そうして目まぐるしく回り続ける年月へ必死にしがみつきながら迎えた今日が、まるで現実では無い様に思えて仕方がない。
百年を越える歳月の足跡は、それだけ己の中で数多の感情と共に染み着いている。

その脳裏へ様々な光景を甦らせながら訥々と語る修兵の声を、阿近は鋏を滑らせながら静かに聞いていた。
自分が最も苦しんでいる時、一番近くで全てを見ていてくれたのは阿近だったのだと修兵は言う。
確かに、あれから今日に至るまで、前へ進もうとする修兵の傍らでずっとその姿を見続けて来たのだ。
修兵の胸中へ沸いている感慨が、阿近には手に取る様に分かる程だった。

「まぁな…、休暇が明けりゃその内嫌でも実感するようになるだろ」

「そうですよねぇ」

先に待ち受けているであろう怒濤の日々を思い描いて小さく苦笑を漏らす。
阿近に鋏を取って貰うのは、だからこその決意表明でもあるのだと言った。

それは確かにそうなのだが、

「…勿体ねぇな」

自分の手元からするりと切り落とされていく髪を眺めながら、不意に阿近が呟いた。
緑の黒髪、とでも例えられるだろうか。
本来ならば女性に対する表現なのだろうが、修兵にも十二分に当てはまるのでないかと思う。
それだけ、阿近はこの艶やかな黒髪を気に入っていた。

「それじゃあ、形見にでも持ってて下さいよ」

「バーカ、洒落になんねぇよ」

掌へ髪を掬い上げながら、阿近は胸の奥の方で何かがツキリと軋むのを感じていた。
休暇明けには早くも護廷入りが決まっていて、すぐに席官にも抜擢されるだろうという確証に近い噂もあるだけに、命を賭す任務に就く日はそう遠い事ではないのかも知れない。
自分とは立場の違う、戦闘要員として入隊する修兵にとってそう言った危険は格段に多く、常に付き纏う。
そんなものはもう互いに言わずとも今更分かってはいるのだが、それでも、小さな棘として残るそれをなかなか取り去る事が出来ないでいるのも事実だった。

「お前が泣いて出戻って来ねぇように、コレで呪いでもかけといてやるよ」

「な、泣きませんよ!!」

ぐりんと振り返りそうになる修兵の頭を、阿近は苦笑いを浮かべながら再び両腕で押さえ付けた。




* * * * * 




「おら、終わったぞ」

手櫛で軽く髪を整えると、阿近は手拭いを取り去って鏡を修兵へ手渡した。

「うわ、…新鮮」

随分こざっぱりと切り梳かれた頭を振りながら、修兵は鏡に写る見慣れぬ短髪の自分を覗き込んだ。

「ありがとうございます、阿近さんやっぱ器用。
なんか、すっきりしました」

「そうか」

「はい・・・」

手触りの随分変わってしまった自分の髪を梳きながら、修兵は急に顔を歪めて押し黙ってしまう。
阿近の視線から逃れる様にしてぐっと俯いた瞬間、その膝元へぱたぱたと透明な滴が幾筋か落ちた。

「あ、れ・・・、」

今日、門出を祝う厳かな式典が進められて行く最中、周りからしきりに啜り泣く音や嗚咽を堪える声が響いている中で修兵は一滴たりとも涙を流す事も、ましてや顔を歪める事もしなかった。
周囲には随分と落ち着いている印象を与えたのだろうが、それはただ単に修兵の中へ込み上げているあらゆる感情の振り幅が大き過ぎて処理を仕切れずにぼんやりとやり過ごしていたに過ぎなかったのだ。
それが今初めて、物理的なきっかけと阿近の存在を前にした事で外れた箍が、衝動的な実感となって溢れ出したのだろう。
寂しさとも充実感とも当てはまらない様な、もっと特殊な感情の群の奔流が修兵の胸を一杯にしていく。
さらさらと切り立ての髪を撫でる阿近の仕草も手伝って、一層溢れ出した涙は浅葱色の袴へ見る間に染みを広げていった。

「今が、やっとあの人に近付ける第一歩かなって思うんです…」

「あぁ」

左頬に彫り込んだ数字へ手をやりながら、どうにも制御出来なくなってしまった涙を流し続ける修兵に阿近はほんのりと苦い感情を覚えていた。
手放しで祝福してやりたい気持ちは当然ある、だけれど百年以上もの間ずっと修兵の中へ居座り続けている男に対して言わぬ嫉妬心を抱いていたのも事実だった。
余り感情の波を立てない己の中にこんな独占欲や庇護欲が存在するのかと言う事を自覚させたのは修兵の存在だ。

(どうしようもねぇな…)

長い髪がなくなり晒された首元に手をやって支えながら、阿近は自分の方へぐいと修兵の肩を引き倒した。
胡座になった膝の上にその頭を横たえてやると、真っ赤になった目を見開いてこちらを見上げてくる。
幾筋も涙を流して腫れてしまった目を労る様に、掌で両の瞼をそっと覆い隠した。
自分よりも体温の低い阿近の手が心地良かったのか、咄嗟の事に強張らせていた修兵の肩から力が抜けていく。
装飾具を外したままの喉元が、しゃくり上げる様に上下していた。

「修兵、強くなれ。そいつの事をさっさと追い抜いちまう位、強くなれ」

そうして俺の目の届かない所へ居ても、傍に居てやれない時があっても、お前が傷付けられる事のない程に、そいつの影さえ薄れてしまう位に。

阿近の掌へ睫の震える感触が伝わる。
目尻からまた一筋、頬へ滴が流れ落ちて行くのが見て取れた。
修兵は瞼を覆われている手の甲へ自分の両手をぐっと重ねると、阿近の言葉に一つ大きく頷いて見せた。






「落ち着いたか?」

あれから暫く、阿近の膝へ頭を預けたまま呼吸が落ち着くまで起き上がる事が出来なかった。
すっかり重く腫れてしまった瞼を気まずそうにしばたかせながら、体を起こしてぼんやりとした頭を働かせる。

「はい…ありがとうございました」

辺りに散らかしたままだった散髪道具を片付けながら、修兵が外した首の装飾具を持ち主へ帰そうとした阿近の手が止まる。

「おい修兵、コレ暫く俺に貸しとけ」

「…いいですけど、それに何かあるんですか?」

「あぁ、すぐ返してやるから心配すんな。しっかし…」

髪を切ったばかりの修兵を改めて真正面から眺めながら、阿近はふっと微笑を含んだ息を吐いた。

「なんか、幼くなってねぇ?」

「え、嘘!」

鏡を差し出す阿近の手からそれをひったくると、眉間に皺を寄せながらうんうんと唸り始めた。

−そうかな、いやそんなことは、見慣れないだけで、いやでもなんか…うーん…−

ぼそぼそと呟きながら一人で悩み始める修兵を、阿近は時折からかいながら面白気に眺めていた。




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