「ふぁ〜あ…」


行きつけの飯屋で食事を兼ねた晩酌を終えて、さて後は一風呂浴びて床に就くだけだと、恋次は膨れた腹を擦りながら満足げに欠伸を漏らした。
緩み切った顔でだらだらと歩きながら大欠伸を晒している様は、己の上官に見られれば締まりがないと咎められてしまいそうな所だが、終業後位は見逃して貰いたい。
少々飲み屋に長居をしてしまったせいで夜もすっかり更けてしまって、幸い誰と擦れ違うこともないまま散歩がてら気分良く帰路を歩いていた。
夜風は気持ちが良いし、邸宅や商店から漏れる控えめな行燈の灯と星明りが夜道を薄ぼんやりと照らしていてなんとも良い雰囲気だ。

「あー…もう一杯くらいひっかけときゃ良かったぜ」

そんな独り言を呟きながら鼻歌混じりにふらふらと歩いていた恋次の爪先へ、ガツンッと何かが引っ掛かり思わずそのままつんのめってしまった。

「うおあ!?」

「ぎゃあっ」

思わず恋次が声を上げたのと同時、足元から悲鳴が上がってびっくりついでに勢い良くべしゃりと何かを押し潰してしまう。

「いってぇー…なんだぁ?」

間抜けにも強かに打った両膝をついたままむくりと上体を起こせば、どうやら店の軒先に掛けられていた葭簀を引っ掛けてしまったようで、無残に下敷きにされたそれがぐにゃりと歪んでいる。
が、しかし、問題はそこではなく、先の悲鳴と言い己の下にある妙な盛り上がりと言い、葭簀の下に何かがいるというところだ。
猫か何かを下敷きにしてしまったにしては随分と手応えの大きいそれに何事かと体を退かし、ぺらりと、確かめるべくその薄っぺらい葭簀を捲った途端恋次の目がぎょっと見開かれた。

「檜佐木センパイ!?」

余りに予想外の人物の顔が半ば涙目でこちらをキッと睨み付けていて、ついさっきとは別の意味で驚いた恋次が大きな声を上げる。

瞬間、

「しっ!!」

がばっと恋次の口を片手で塞いだ修兵が素早く身を起こすと、そのまま引き寄せて己と恋次の身体ごと潰されてひしゃげていた葭簀で覆い隠してしまった。
路地の入口で店の壁にぴったりと身をつけて暗がりで葭簀を被る様はなんとも滑稽で、これでは二人纏めて明らかに不審者だ。
恋次は口を塞がれたまま何事かと疑問符を大量に浮かべてもごもごと訴える。
困惑する恋次を他所に、当の修兵は周囲へそろりと視線を向けて慎重に何かを探るとほっとしたように息を吐いた。

「絶っっ対でかい声出すんじゃねぇぞ?あと霊圧抑えろ!!」

極力押し殺した声でそう告げて目で脅してくる修兵の迫力に怪訝に思いながらもコクコクと頷けば、ようやく口を解放されて盛大に息を吸い込む。

「ぶっは…あぁ〜苦しかった…なにしてんすか…」

「っ別になんもねぇよ…くっそ思いっ切り潰しやがって痛ぇだろうが」

「はあ!?こんなとこで蹲ってる方が邪魔なんすよ!大体…って…あ!」

暗がりに目が慣れてきた所で修兵の姿を見とめた恋次が、何かに思い至って指差した。
盛大に心当たりがあるのか、修兵があからさまに気まずそうな表情でふいと視線を他所へ逸らす。

その思い至った記憶を遡ること、一昨日の昼。

相も変わらず追い立てられるように職務を熟す九番隊で、これまた人一倍忙しなく立ち回る副隊長が、執務中に負傷したという話を耳にしたのだ。
その時には如何ほどのものかとヒヤリとしたが、良く良く聞いてみれば然程大したことはなく。
視界を塞がれるほど大量の資料を抱えての移動中、階段に差し掛かった所で女性隊士が足を滑らせて転びそうになっていた瞬間を目にした修兵が、咄嗟にその腕を取り助け起こした。
間一髪でその女性隊士は転落から免れたものの、大荷物を抱えていた修兵の方がバランスを崩してうっかり足を滑らせ紙束もろとも派手に転落し、頭部を打ち付けて気を失ったと言う話だった。
幸い段数が少なかったことと軽い脳震盪だけで済んだ為大事には至らなかったと聞いた時には胸を撫で下ろしたが、打った場所が頭だったこともあって、卯の花から『念の為、最低でも二日間は絶対安静』を言い渡されていたはずだ。
女性隊士を庇って己がコケたとはなんとも彼らしい話だが、安静の為にきっちりと非番を言い渡されていたその修兵と何故こんなところで出くわすのか。
良く見れば、いつもの死覇装ではなく濃紺の浴衣を身に着けていて格好だけは立派な非番中だが、何やら両腕に書類のようなものを抱えている。
それを見て大体の察しをつけた恋次が、はああと呆れたような溜息を吐き出した。

「アンタ、絶対安静中なんじゃなかったのかよ…」

「!」

恋次の言葉にギクリと肩を強張らせて、他所へやっていた視線をうろうろと彷徨わせる。
いや、だの、べつに、だのと何やらもごもごと口籠りながら拗ねたような顔をしてみせた。

「…別にもうなんの問題もねぇし、そもそも大したことなかったんだよ、ちっとぶつけた位で気ぃ失ったのも一瞬だったしそんな大袈裟にしなくても…」

確かに、当人の言う通り声に覇気がないわけでも顔色が悪そうなわけでも無さそうなので、恐らくはもう心配することもないのだろう。
とは言えやはり卯ノ花の診断と忠告は絶対だし、必要な静養であることに間違いはないのだ。
腕に抱えているものを見るに、恐らく仕事の書類なのだろうが、この男はたった二日も大人しくしていられないのかと若干の呆れがそのまま溜息になって漏れ出てしまう。
大方、卯ノ花だけでなくあの銀髪の上官にもきつく言い付けられていたものの、仕事の虫であるが故の性分の方が勝ってしまって、いてもたってもいられなくなってしまったのだろう。
それを告げればまさに図星だったようで、しゅんと萎れながら観念したようにぽつぽつと事の経緯を話しはじめた。

四番隊の救護室から帰宅して一日半はちゃんと大人しくしていたこと、たまたま今晩隊長の面々だけの会合があって拳西が不在にしていたこと、ちょうど明日締切になっていた処理済みの書類の存在を思い出したこと、
ならば明日の出勤時までに目を通すことだけはしておこうと拳西不在の隙に隊舎まで取りに行ったこと、その帰り道でたまたま飲み屋へ場所を移している途中の拳西達と鉢合わせしそうになって思わず慌てて身を隠してしまったこと。

そんなこんなで、今の間抜けな状況に至るのだそうだ。

反射的にとは言えど、怒られると思って隠れるなどまるで子供のやることだと、自分よりも年上な筈の男の行動に呆れながらも少々可愛いとも思ってしまうのは完全に惚れた欲目だろう。
近頃…それこそあの男が隊長の座へ復帰してから、こういう表情を目にする機会が増えているかもしれない。
日頃絶対に隊士達には見せないような情けない顔を己に晒している様に、こうして気を許してくれている関係を嬉しく思いつつも、そうさせている大元の存在の大きさを思うと非常に面白くないと思ってしまう。

「大方そんなこったろうと思ったけどよ」

「う…」

「…けどまぁ、六車隊長がそんなことで怒るとも思えねぇけどな」

「お…こらない、とは思う…けど叱られる…と、思う…」

「分かってんじゃねぇか!!」

くわっと目を見開いて声を荒げる恋次に、ますます小さく縮こまりながら爪先へ視線を落とした。
普段の凛とした貫禄は何処へやら、まるで年長者とは思えない修兵に”しょうがねぇな…”と、そう思いつつ項垂れている小さな頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
悄然とする様子についつい手を出してしまったが、後輩に頭を撫でられるなど拳でも一発飛んでくる覚悟をしたものの、予想に反し僅かに呻いて避ける仕草を見せただけだった。

「いってて…!」

「あ!すんません」

そう言えば頭を打っていたのだった、思わず考えなしに撫で回してしまったが、包帯はないものの触ればまだ痛むのだろう。

「痛ぇのどこ?」

「いや、なんともねーって!」

そう言ってぐいぐいと恋次を押し退けようとする両手を掴んでしまうと、今さっき自分が撫で回していた後頭部の辺りの髪を掻き分けて覗き込んだ。

「ぶっ!!!」

サラサラとした黒髪を掻き分けたその奥で、これでもかと近年稀に見ないほどの立派なたんこぶが顔を覗かせていた。

「でっけぇたんこぶ!!」

あまりにも年甲斐のない有り様に思わず吹き出してしまえば、思い切り眉間に皺を寄せた修兵の拳が肩口へ飛んできて殴られる。
一度吹き出してしまえばなかなか笑いは引っ込まず、可笑しくて一頻り笑っている間もひたすらゴスゴスと殴られた。

「だから嫌だったんだよ…クソッ」

後輩の不躾な態度にすっかり臍を曲げてしまったようで、悪態を吐きながらぶすくれてしまった。
後先考えず人を助けてしまうその正義感も、クソがつくほど真面目な仕事人間っぷりも、一隊を率いる副隊長であるにも関わらずとんでもなく抜けているところも、何もかも全てひっくるめて愛しいと思ってしまう。
長年の野暮な横恋慕なのは重々承知しているが、諦めるどころか彼の人が修兵の元へ戻っても尚、寧ろ益々譲れないものに変わりつつあるのだから相当末期なのだろう。
恋次はなんとも言えない複雑な思いが腹の中をぐるりと蠢くのを自覚しながら、くしゃくしゃに撫で回してやりたい衝動をぐっと抑えてもう一度目の前の丸い頭へそっと手を伸ばした。

「ちっと見せてみ?」

「だからもう大丈夫だって…」

そう言う修兵をやんわりと制して、今度は直接触れないように慎重に髪を避ける。
さっきはうっかり笑ってしまったが、やはりそこそこに腫れていてそれなりに痛そうだった。
一度見られてしまった手前早々に諦めたのか、拗ねた顔で大人しく身を任せてくれている様がなんとも殊勝だ。
おまけに、控えめに鼻腔をくすぐる柔らかな香りが俯いている首筋の辺りからふわりと漂って堪らない心地になる。
恋次はその香りの元を確かめるように、鼻先をすっとその首元へ近付けた。

「檜佐木さん、風呂入ってきた?」

「そ、うだけど…なんだよ近ぇよ!」

「んー?すげぇ良い匂いすっから」

「風呂上りなんてみんな同じようなもんだろうが!離れろっ」

酒臭いし汗臭いからくっつくなと、なんとも失礼な言われようだがそれはまあ百歩譲るとしても、”湯上りの匂いは皆同様”という意見には賛同し兼ねる。
同じ男であるにも関わらず、これ程までに甘やかで危うい香りを撒き散らしている者などいるものかと、少なくとも己の記憶を辿った中ではお目にかかったことは無い筈だ。
近頃は共同の大浴場にもあまり姿を見せないし、しばらく焦がれていた香りにくらりと目の前が眩む。

(あー……ヤベェ…)

薄暗がりの中でぼんやりと白く浮かび上がる襟足に、そっと喉を鳴らした。
元より持ち合わせているであろう修兵の色香が目に見えて日に日に色濃くなっていくのを、ただただ指を咥えて眺めているだけの歯痒さも恐らくそろそろ限界だ。
腹の底へ幾重にも溜まり続けているものが喉元をせり上がって来てしまいそうになって、危うく息を飲む。
出来るならば、このまま両腕でぎゅうぎゅうに閉じ込めて袷を暴いてその首筋に齧り付いてしまいたい。
そんな、寧ろそれより先の妄想まで繰り広げかけて、当人を目の前にしたあまりの生々しさに思わず額をすぐ横の柱へゴッと打ち付けて自制した。

「は!?どうした!?」

「…いや、なんもねぇっす…なんも…」

(……そんな目で見やがって…)

何事かと、ただ無防備に見上げて来る顔に理不尽な怒りさえ込み上げて来る。

(今アンタは俺の妄想の中で凄ぇことになってんだぞ勘弁しろ…ッ、アレがナニしてこうなってんだぞ!?食うぞコラ…ッ!!)

などと物騒なことを思えど口に出せるはずもなく、ひたすら無を貼りつけて頭の中身を悟られないように誤魔化した。
なんだか自分ばかりが一方的に精神的打撃を受けているようで実に面白く無い。
それこそ勝手な言いがかりなのだが、ほんの少しだけ、腹癒せに意地悪をしても許されるかと、稚拙な悪戯心が顔を覗かせる。

「あぁー檜佐木サン…そこ、赤いの、痕見えてる」

目を細めながら含ませ気味にそう言って、襟元から覗いている襟足の下辺りを指先でトンと突ついてやった。
一瞬きょとんとしていた修兵の顔が、一拍置いて瞬時にボッと真っ赤に茹で上がる。
どうやら恋次の謂わんとしている真意を正しく理解したのだろう、狙い通りの反応に少し胸が空く思いがした。
が、しかし、そんな破廉恥な痕跡が修兵の首筋についているなど恋次の吐いた真っ赤な嘘で、そうであるにも関わらず心当たりがあり過ぎるのかなんとも色っぽい反応をされてしまって逆に複雑な気持ちになってしまう。
これは何かの間違いだだの忘れろだの苦しい言い訳をして突つかれたところをバッと掌で覆いながら、恋次の視線から逃れようと頬を染め上げてぐいぐい押し返してくる仕草が可愛らしくて小憎たらしくて可愛らしくて心底悔しい。

(あぁぁクソッ、堪んねぇ…)

「センパイ、もっと寄らねぇと丸見えっすよ」

そう言って、葭簀からはみ出してしまっている修兵へ腕を伸ばした。

「う、わ…っ」

未だ恋次の悪戯から立ち直れず狼狽えている修兵の腰をどさくさに紛れてぐいと引き寄せながら、その引き締まった細さと甘い香りを存分に堪能する。
これ以上はまずいと、なけなしの理性が警鐘を鳴らしているのを押し遣り、薄暗がりで俯いている整った顔を覗き込もうとしたのと同時、

「阿散井!」

今最も聞きたくない声の持ち主から名を呼ばれ、内心で盛大な舌打ちを鳴らした。

(なんっつータイミングだよ…!!!)

「こんな所で何してる」

幸い恋次の逞しい背中に隠されて修兵の姿は見えていない様子だが、腕の中で冷や汗を掻きながら小動物のようにピシリと固まっている。
どうすると、視線だけでチラリと様子を窺えば、小刻みにプルプルと首を振られて思い切り拒否を示された。
それに小さく溜息を吐きつつ、首だけで名を呼ばれた方を振り返る。

「いえ…ちょっと手負いの野良猫が暴れてて…様子見てただけっす…」

「そうか」

恐らく酒の席を途中で抜けて来たのだろうか、周囲に他の隊長の姿はなく拳西一人のようだった。
明らかに不審者然としたまま、野良猫が…と歯切れ悪く返す恋次にニヤりと口端を上げるものの、目の奥が一切笑っていないのが恐怖だ。

(ばれてるコレ絶対ばれてる…)

拳西の絶対零度の目付きに修兵の冷や汗がこちらにまで移ってくるような気がして、さり気なく目を逸らせながら頬を引き攣らせた。

「そいつぁうちに居ついてる黒猫だ、俺にしか懐かねぇから引っ掻かれないように気を付けろよ」

早く戻るように伝えろと、それだけ告げてあっさりと去ってしまう。
あっさり、とは言っても、こちらの様子を然程窺うでもなく行ってしまったことが逆に恐ろしい。
案の定、修兵は冷や汗を垂らしながら白い顔を青くして硬直していた。
四つ這いで項垂れている様が悲壮感を増長させていて、なんとも哀れだ。

「怒ってる…あれ絶対怒ってる…」

「…まあ、自業自得っすよ」

そう止めを刺せば、頭を抱えてなんとも言えない呻き声を上げる。

「つーか…俺は猫じゃねぇ…」

「そこ気にすんのかよっ!」

現実逃避なのか何なのか、的外れなことを呟きながらなかなか立ち上がろうとしない修兵を追い立てて、さっさと帰るように促した。
せっかくの風呂上りだというのに埃っぽくなってしまった浴衣の裾をはたいてやって、丸まっている背中をバシッと叩く。

「ったく、ガキじゃねぇんだから…さっさと叱られてさっさと寝ちまえばいいんすよ」

「…冷てぇ」

「は!?なに言ってんだ甲斐甲斐しいくらいだろうが!!」

心外な言葉に吠える恋次の声を背中に受けながら、とうに姿の見えなくなってしまった拳西と同じ帰路をとぼとぼと歩いて行った。
小さくなるまでその情けない背中を見送って、恋次は今日一番の溜息を吐きながら壁に背を預けてずるずるとしゃがみ込む。

「あ゛ぁぁー疲れた…今回俺セーフか…?いやセーフじゃねぇか…」

射抜くような鋭い視線を思い返してぶるりと背筋を震わせながら、やはりもう一杯ひかっけに行こうと勢い良く立ち上がる。

「…乱菊さんでも呼ぶかなー」

どうしようもない愚痴を聞いて貰いながら(恐らくは揶揄と説教三昧になるだろうが)の嘆き酒にするか、はたまた未だ微かに感じる残り香を肴に一人酒を決め込むか、究極にどうしようもない二択に悩みながら二軒目の飲み屋へ足を向けた。



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