休日の午前9時過ぎ。

いつもならば修兵が起こしに行かずとも、とっくに起きて来ている筈の拳西の姿が見当たらない。
ひっそりとしているリビングにも、それこそキッチンや洗面台にも誰かが使った形跡がないので恐らくまだ寝ているのだろう。
基本的に夜型の阿近は別として、昨夜はそれほど遅くまで起きていた様子もないのでこの時間まで起きて来ないのは珍しい。

(どうしよっかなー…)

寝ているなら寝ているで起こすのも忍びないのだが、そう言えば昨晩床に就く前に朝食を和食にするか洋食にするかの希望を聞きそびれてしまっていたことを思い出す。
静か過ぎるリビングになんだか奇妙な違和感がふつりと湧いて、メニューを確認するついでに様子を見に行こうとひとまず拳西の寝室へ向かった。






「…拳西さん?」

そろりと音を立てないように扉を開けて中を窺った。
カーテンをぴたりと閉められた寝室は薄暗く、窓際に設置されているベッドにはこんもりと大きな丸い山が出来ていて、部屋の主がまだ熟睡していることが分かる。

―――それにしても。

ぱっと見渡した寝室の様子に、修兵はことりと首を傾げた。
夏にはまだ早いが随分と暖かくなって来たこの時期、基本的に体温が高くて暑がりの拳西がきっちりと布団を掛けて寝ているのは珍しい。
薄手のタオルケットですら朝には蹴飛ばしてしまっている状態のほうが多いのだ。
それだから、つい先日衣替えを終えた時に秋冬用の掛布類は全てクローゼットの奥へ片付けてしまった筈で、あんなに厚手の毛布を出しておいた覚えはない。
それに、いくら拳西ががっしりとした体格の持ち主とは言え、布団の盛り上がりが大きすぎやしないか。
まさか阿近が潜り込んで仲良く添い寝でもしているだなんて天地が引っくり返るような事態になっている筈もなく…いやそれはそれで修兵にとってはちょっと羨ましい上に混ざりたい状況なのだが…そうだとしてもあの盛り上がり方は異様だ。
ともかく、違和感の正体を確かめようと足を踏み入れて、ベッドの足元からそっとカーテンの裾を摘まむ。
シャッと音を立てて三分の一ほどカーテンの開けられた窓から朝陽が射し込んだベッドを見下ろして、


「…………へ…?」


たっぷりとした時間を置いて一つぱちりと瞬きをした後、


「ーーーっ!!!??」


ひゅっと息を飲んで、硬直した。

そのまま視線を下ろした己の足元には、案の定見慣れたタオルケットが無残に落とされて丸まっている。
…"ああもうしょうがないなぁ、やっぱり蹴ってる"…だなどと現実逃避に思考を飛ばしている場合ではなく、レースのカーテンの隙間から漏れ射す柔らかな朝陽を受けてキラキラと輝く白い毛並に、思わず叫び出してしまいそうになった口を咄嗟に両手で押さえた。

(うそ……!!)

見間違える筈もない。
真っ白な毛色の中に、所々濃い縞模様が見て取れるそれは明らかに昨晩テレビのモニターの中で見たばかりの獣のそれで。

――ベンガル虎亜種・白変種"ホワイトタイガー"

ふと、昨日のテレビで耳にした名称が脳裏を過ぎる。
拳西が寝ている筈のベッドの上、大きな体を器用に丸めて穏やかに寝息を立てているのは、間違いなくそれそのものだ。
修兵は目の前の現実が飲み込めないまま、呼吸も忘れてじっと目下の巨体を凝視する。


太陽光を反射している毛皮は、単純に白というよりもよくよく見れば限りなく白に近い白銀のようで、それこそ誰かの髪色を彷彿とさせるような色だった。
虎を象徴とするくっきりとした縞模様も、テレビや図鑑で見たことのある濃茶に近い黒色ではなく、灰色がかっている。
絶妙なコントラストを湛える艶やかな毛並は、ふわふわとしていていかにも触り心地が良さそうだ。
大きさは、恐らく起き上れば相当大きいのではないだろうか…今でこそ悠然とベッドへ横たわる様にはかなりの迫力がある。
白銀の毛皮と美しくカーブする背骨のラインにぼんやりと見惚れて数秒、僅かに身じろいでくわっと口を開けたその隙間から鋭い牙が覗いて、修兵は飛び退くように後退して寝室を飛び出した。
バタンッと後ろ手に扉を閉めてがくりと蹲る。

(っ…腰抜けた…)

両手と両膝を床に着いたままずるずると這って、寝室の扉と反対側の壁に背を凭れて膝を抱え詰めていた息を吐き出した。

――今のはなんだ、拳西の寝室で間違いなく拳西のベッドで、でも拳西はいなくて、リビングにもいなくて、虎が、居て…ならば拳西はどこへいったのだ。

静かな廊下に己の荒い息遣いだけが響いて、修兵はぐるぐると混乱する思考にぎゅっと服の胸元を握り締めた。
ついさっき目前にした鋭い犬歯がフラッシュバックして、たらりと冷や汗が額から流れ落ちぞわりと背筋が震える。
かじりたいとかかじられたいとか、そんなことを考えなしに口にしていた昨夜の己のなんと軽率なことか、いくらネコ科動物好きを豪語していようともいざ目の前にすればどうなのだ、

(こわい…!)

先からぶるぶると震えている両手をしばらく茫然と眺めてから、はっとしたようにボトムのポケットに突っこんでいたスマホを取り出す。
一度ぎゅっと掌を握り込んでから覚束無い手元で画面をタップした。

(そうだ…ニュース…ニュースに何か、動物園の虎が逃げ出したとかそういうの…!)


震えで上手くいうことを聞かない指先をどうにか駆使して、ニュースサイト、誰かのSNS、昨日テレビで見た動物園の公式ページにツイッターのアカウント…思い浮かぶ限り検索し尽くして愕然とする。

「…な…ない…なんで…!?」

検索画面にはどこも変わりのない日常が綴られていて、修兵の求める類のニュースは一件も見当たらなかった。
一つずつ画面を閉じながら、それならばと短縮から拳西の番号を呼び出して発信をタップする。
まずは当人に連絡を取るのが先決だ、もしかしたらコンビニにでも出ているのかもしれないし、いつもの書き置きを忘れただけなのかもしれない。
そんな願いも空しく、修兵が発信した先の聞き慣れた拳西の着信音は、無情にも寝室の奥から微かに届くだけで。

「嘘だろ…!」

慌てて電話を切った修兵は、スマホを握り締めたまま縋るような思いで奥にある阿近の寝室へバッと目を向ける。
手にしていたスマホを投げ捨てて震える膝を叱咤し半開きの扉へ手を掛けようとしたのと同時、音も無くするりと黒い塊が姿を現した。

「っ!?」

阿近が寝ている筈の目の前の部屋から出て来たのは、艶やかな漆黒の毛皮を身に纏った一頭の豹だ。

―――ネコ目ネコ科ヒョウ属・豹の黒変種"黒豹"。

すらりとした無駄のない体躯で凛とこちらを見据える目の鋭さは、虎と同様紛うことなき森林の猛獣だ。

「……ぁ…っ」

脳で考えられるだけの容量を超越した修兵の頭はとうにパンクしていて、じっとこちらを睨み据えて来る双眸から目を逸らせないまま後ろ手をついてずるずると後ずさった。
少しでも気を抜けば漏れてしまいそうになる悲鳴を唇を噛むことで必死に押し殺しながら、出来る限りの距離を取ろうと後退する修兵の背が、トンと、何かにぶつかって阻まれる。
ゆっくりと振り返って見上げた先、さっきまで拳西の寝室で寝ていた筈の白い虎がこちらを見下ろしていた。

「ひっ!!」

がばっと両手で己の口を押さえて飛び退き、虎と豹に挟まれた狭い廊下の壁へビタンッとその背を貼り付ける。
家の中で猛獣に挟まれる非現実的な状況にさっきからもうずっと頭がついてきていない。

出来得る限りその身を縮こまらせて視線を床へ落とす修兵とは対照的に、二頭の大きな獣はじっと修兵を見据えていた。
泣き出してしまいそうになりながら小さく震え続けている修兵の様子を見て、虎よりも幾分か小柄な黒豹がスラリとした尻尾を一度ぱたりと振ってから、ゆっくりとその身を伏せる。
それを見た虎も、ほんの僅か困ったように耳をへたらせながら大きな体をその場に横たえ、交差させた太い前足に顎を乗せて蹲った。

「……」

潜められた二頭の気配に、修兵はチラチラと左右に視線を振りながら横目でその様子を窺う。
こちらへ近付いてくる様子も襲い掛かってくる様子もないことが分かって、細く息を吐き出しながら少しずつ体の緊張を解いていった。
修兵の倍はある巨体で廊下を塞いでいる白い虎が、怯えきっている修兵の表情を見て微かに眉の辺りを下げた気がして目を見開く。
黒豹に至っては、もう興味を失っているのかなんなのか、ぱたりぱたりとマイペースに尻尾を揺らしながらくあと欠伸を見せて寝に入る一歩手前だ。
どちらも不在の誰かに似ているような気がして、"そんなことが起こる筈が無い"と言う修兵の冷静な理性を少しずつ隅に押し遣って行く。
ぽかんと口を開けたまま再び頭をフル回転させ始めたその時、

『(…修兵)』

グルグルという獣特有の低い唸り声の奥の方から、己の名を呼ぶ拳西の声が届いた気がして、修兵は間の抜けた顔のままぱちりと一つ瞬きをした。






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