(…雨か……)



ぱたぱたと、窓を叩く音を聞いて拳西はゆっくりと瞬きをした。
床の間の足元に並ぶ明り取りの擦り硝子を、ザアッと音を立てて雨が撫でている。
随分強かに降っているようだ。
月も無く、陽も射さない室内は暗くひっそりとしている。
拳西は腕の中で眠る修兵の様子を伺うと、健やかな寝息を確かめて眦を和らげ、ゆっくりとその髪を梳いた。
寝乱れてしまっている白い襦袢の袷を申し訳程度に直してやりながら、起こしてしまわないよう慎重に半身を起こす。
暫くぼんやりと薄暗がりの中で隣の寝顔を眺めてから、暗闇に目が慣れて来た所で枕元の行燈に火を入れた。
柔らかな橙色の明りが部屋へ広がって、枕へ半分顔を埋める修兵の滑らかな頬にもその暖かな色が浮かび上がって揺れる。
余りにも無防備に、心地良さそうに眠っているのが愛しくて、拳西はゆっくりと上体を倒すとその襟足の辺りへ鼻先を埋めてすっと息を吸い込んだ。

(甘ぇ……)

昨夜の情事の欠片が混ざるその香りは、常よりも一層甘く鼻腔をくすぐる。
深く吸い込んだそれから名残惜しげに離れて、拳西はその髪を再び梳きながらちょうど正面に据えられている窓の外を眺めた。
変わらず、弱まる気配もなく雨は降り続いている。
屋根や壁を打ち付けて地を叩く雨の音を聞いていると、どこか閉じ込められたような、隔離されているような非日常を感じて、拳西はこんな雨の日が好きだった。
強く降れば降る程良い。
以前それを、“秘密基地で隠れてるみてぇじゃねぇか”と、そう告げれば子供みたいだと修兵に笑われてしまった。

屋根裏の片隅、どこかで見付けた小さな洞窟の奥、大きな木の洞の中、路地裏の影。

雨を遮断するそこだけは静かで、自分だけが知る特別な場所だと思い込んでいた遙か遠い幼い記憶を辿って、どことなく懐かしい気持ちになる。
子供が楽しむには、今の状況は到底当て嵌まる無邪気なものではないけれど。
拳西は未だしどけなく敷布に身を預けて胸をゆったりと上下させる恋人を見下ろしながら、口元だけでふっと笑った。

そうしている間にも雨は強まるばかりで、風雨が容赦なく屋根を叩いて、窓の外で危うげに揺れていた木の枝が大きなしなりを見せる。
今にもぽっきりと折れてしまいそうだ。
ああ明日は晴れたら庭掃除からかと、取り留めもなくそんな事を思いながら窓の外を眺める拳西の腰元へ、するりと、しなやかな腕が巻き付いた。

「…けんせぇさん……起きてたんですか?」

いつの間に目を覚ましたのか、未だ眠気を含む舌足らずな声でもごもごと喋りながら、修兵が拳西の腿に頭を乗せて擦り寄る。

「ああ、少し前にな。悪い、起こしたか?」

「いえ…音が…雨凄いですね」

どうやらこの雨の音で目が覚めたらしい。
半分ほどしか開いていない目を凝らして、修兵も窓の外へ視線を投げる。
そうして暫くぼんやりと二人で雨の音を聞いていれば、“いい匂い…”そう呟いて、修兵が拳西の腰元へ顔を埋めた。

「匂い?」

「しませんか?雨の日の匂い…」

例えば、畳の青い匂い、木の匂い、土の匂い、ひんやりとした風の匂い。
一つ一つ、修兵は頬を包む拳西の大きな右手に触れながら雨の日に感じる匂いを挙げて行く。
拳西が書きものをしている時の紙と墨の匂いも、遠くから届いているような湿った花の匂いも、修兵は雨の匂いが好きなのだ。

「それに…拳西さんの匂いも…」

そう言って、いっそう強くしがみついた修兵は、脇腹の辺りに鼻先を埋めて深く息を吸い込んだ。
鼻腔から肺を満たして体中に沁み渡って行く、雨の香りに混ざって色濃くなった拳西の匂いは酷く落ち着く。
目を閉じてうっとりと身を摺り寄せる修兵の背中から腰の辺りまでを掌でなぞれば、ふるりと肩を震わせて見上げて来た。
微かに潤みを帯びたその視線を受けて、トクリと、拳西の心臓が跳ねる。

雨の日の修兵は、こうして時折感覚が過敏になる。
それは嗅覚だったり、触覚だったり、温度や、時には感情の機微までも。
雨が激しく打ち付ければ打ち付ける程に、その変化は強く現れる。
頭痛持ちだと言う彼の思わしくない症状が顔を覗かせる事もあるから、今日はどうかと、窺う様に拳西が親指の腹でこめかみの辺りを撫でれば、大丈夫と言う代わりに一度首を横に振ってからその指先へ口付けた。
唇の間で軽く食まれるそれは少しの欲を覗かせて期待をしてしまったが、すぐに離れて、拳西の腿に頭を預けたままくぁと小さな欠伸をする。
艶やかな所作を見せたかと思えば子供の様な仕草もして見せる、雨の日の修兵はどこかアンバランスで気紛れで、拳西はそんな危うさが好きだった。
これも、拳西が雨を好きな理由の内の一つなのだ。
すっかり居心地良くその場所に落ち着いてしまったらしい修兵は、時々拳西の指に己の指を絡ませたり甲を撫でたりして手遊びをしながら微睡んでいる。
雨の音と僅かな衣擦れの音だけが室内に響いて、ゆったりと流れる静かな空気が心地良い。

「俺、雨好きなんです…匂いとか、音とか…」

「奇遇だな、俺もだ」

そう言って少し笑うと、拳西は修兵の体を引き上げながら腕の中に抱き込んで、再び床へと横たわった。
体を少し下げて、今度は拳西が修兵の胸元へ頭を預ける形になれば、自然と修兵はその頭を抱え込み柔らかな銀髪へ幾度か口付ける。

「雨だと、拳西さんの前髪ぺたんって下りるじゃないですか…なんか色っぽい…」

「そうかよ…」

「はい」

いつもはぐっと眉根を寄せている額を隠すように垂れる前髪が、少し特別なような気がして修兵は好きだった。
本人は雨の日に覇気がなくなる髪を気に入らないようで、執務のある朝に時々鏡と格闘している姿はなんだか微笑ましくもあるのだけれど、それが“可愛い”と言ってしまえば機嫌を損ねてしまいそうで口にした事はないのだが。
修兵が思い出したようにくつくつと喉元で笑えば、その振動が拳西にも伝わったようで怪訝な顔をされてしまう。

「何笑ってんだ」

「いえ、別に」

そう言う修兵の答えが不満だったのか、鎖骨の下辺りへ強く吸い付きながら抗議を示す。
チリ、とした感覚にはっと甘い吐息を漏らして、修兵は無意識にその頭をぎゅっと強く抱え込んだ。
ああこれは付けられたなと視線を下げれば、案の定薄い皮膚に赤い痕が浮かび上がっていて、修兵は小さく咎めるように拳西の髪をツンと引っ張って見せた。
拳西がそれに軽く片眉を上げるだけで答える。

「なぁ…、今日はどうすんだ」

唐突に拳西が訊ねれば、修兵は少し考えた後、

「……拳西さんと引き籠る」

そう答えながら、乱れた敷布の中で拳西の足へすりと己の足を絡ませた。
修兵の引き締まった脹脛と形の良い膝の骨が夜着の隙間から腿をくすぐって、拳西よりも幾分か体温の低い滑らかな素肌の感触が淫らで下腹が少し重くなる。

「はっ、なんだそりゃ」

未だ寝起きの幼さが潜む表情で仕草だけは誘うような大胆さを持って触れて来る修兵に、拳西は堪らない気持ちになる。
只管に甘やかして溶かしてとろりと蜜を帯びた体を存分に貪り尽くしたくなる時もあれば、ただゆったりと互いの体温を分け与えるような触れ合いを楽しみたくなる時もある。
特にこんな雨の日は、拳西自身も修兵の不安定さに振り回されてしまうのだけれど、それが酷く心地良いと思ってしまうのだから仕方がない。
結局は、修兵に触れていられればどんな形であれなんでも良いのだ。
とは言え、やはり欲と言う物は尽きないもので、どちらかと言えば今は後者の気分だった。
修兵はどうだろうか。

「…で、それから?」

どうせ、こんな大雨の日に出来る事など限られているのだから、ならばとことん修兵の好きなようにさせてやりたい。
修兵の胸元に預けていた頭を上げて上体を上にずらした拳西が耳元でそう囁けば、ほんのりとその薄い耳朶が赤くなる。

「…お風呂、入りたいです、拳西さんと」

「おう…で?」

「そしたら…もう一回寝ましょう…?」

「寝るだけか?」

そこまで呟いて、修兵は拳西の三度目の問いにほんの一瞬きゅっと下唇を噛んでから、向かい合う拳西の夜着の腰帯へしなやかな指を絡ませた。
躊躇いがちにその結び目を解きながら、朱に染めた目尻を滲ませて揺れる視線を拳西へ送る。

「…それで、今日はゆっくり……その…したい、です…」

語尾がほとんど消え入ってしまいそうな程か細い声で、だけれど確かに告げられたオネダリは雨の音に負けず拳西の耳に届いてことりと落ちた。

「ああ、俺も同じだ」

そう言って、解いた帯を指先で弄ぶ修兵へお返しをするように、襦袢の裾を割り開いて己の足に絡む修兵の太腿から柔らかな双丘まで掌を這わせる。
ひくりと腰を震わせた後、くっと身を捩ってふふっと笑う口元がこの上なく可愛かった。
雨を言い訳にして、修兵は時々こうしてぴったりと拳西へ寄り添う事を強請る。
いつだったか、修兵の頭痛がなかなか止まなかった時に施してやった、ゆったりとした愛撫のような戯れのようなそれが、いたく気に入ったらしい。
ただ熱を昂め合って解放する為だけの交わりではない、体中余すところなく触れて、口付けて、睦言を囁き、何刻もかけて互いの境界線が曖昧になるまで触れ合う。
雨に囲われた檻の中、一日中折り重なって、だけれどひとたび雨が止んでしまえば、修兵の中のアンバランスさはまたひっそりとその形を潜めてしまうのだ。
それが少し名残惜しいような勿体ないような気もするけれど、やはりそれはこんな日の二人にとっての特別だった。

つい今しがた帯を解いたばかりの指先がぎゅっと袂を掴んで擦り寄ってきたかと思えば、修兵は拳西の胸へ額を押し当てて再び瞼を閉じてしまった。
もうちょっと、そう呟いてほぅっと息を吐く。

「おい、んな事してっとまた寝ちまうぞ」

「んー…そしたら拳西さんがお風呂連れてって」

「しょうがねぇな…寝込み襲っても怒んなよ?」

「…馬鹿」

たっぷりとした温かな湯に浸かって、それから好きなだけゆっくりと肌を合わせて、時々はその空腹も満たしながら。
こんな日は、少々行儀が悪くとも言いっこ無しだ。

そんな他愛も無い言葉を交わしている内に本当に眠ってしまったようで、修兵からは先と変わらぬ穏やかな寝息が聞こえて来る。
己の胸元へぴったりとくっついているせいで温かな吐息が素肌にかかり、拳西は困ったような笑みを唇の端に浮かべながら無防備な額へ静かに唇を押し当てた。
本当に、このまま好き勝手をしてしまっては怒られるだろうか。
そんな当たり前の事を思いつつ、もう少しだけ、そう誰にともなく呟いて、拳西は何とはなしに雨音から細い体を隠してしまうようにして抱き込むと、修兵の好きな雨の匂いを想いながらゆっくりと瞼を閉じた。



― 終 ―


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